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M1 紫の糸 ~光を~ La Lumière

M2Prisoner

M3  ホ・ン・ネ Real intention

M4 夕映え It was good die in loneliness

M5 幻華 Distractionof Ω 

 M6 体が風になるまで Return Me!

ボーナストラック:μμタンバリン(アレンジ&プログラミング:Team S)


Vo    Nachiko

Dr    :そうる透

Bass   :渡辺建

Bass   :和佐田達彦

G      :田川ヒロアキ

G   :竹内亨規

Key    :河野啓三

Key    :河本慎一

Vi    :武藤祐生

和太鼓 :響道宴


Mix :岡野高史

All Music&lyrics:舘岡奈智子

All Produce&arr.:そうる透

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La Lumière 

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自分の話など少し・・

早いもので もう9月も半ば。

いよいよ 長い長い沈黙を破って
久々の新譜のリリースが来月だ。

色々話したいことが山のようにある。
ここに書ききれない。
絞って書くことにする。

私は「誰」なのか。
私の大好きなThe Whoの
「Who are you?」 の反対の
質問である。

今の時代 TVを見ていると歌を歌ったりして
いる女の子達が安易に「アーティスト」と自分を
指し、また そう紹介されている。

ならば 私は「アーティスト」なんてモノではなく、
単に詩・歌詞・曲・雑文・小説書きで、
歌をうたい、鍵盤を弾き、カウンセリングをし、
物事を あーだこーだと考えて行動する
トラウマを糧にした吟遊詩人的生物である。

理屈と愚痴を並べたり、涙で勝つのは好きではない。
俗にいう能書き垂れは苦手。
その癖 理詰めだと指摘されるほど調べて
自分で体験し確信を持てないと信じない。
要は、今でこそ あきらめの境地だが
「変わり者」らしく、小説のネタ探しに受けた
コンビニさえ全て落とされた。
さすがに最後は凹んだ。
一生懸命やる時はやる性格だからだ。

まぁ、そんな前置きは置いておいて
話は 突然私が自分のホームページを
作ったことにさかのぼる。

理由は簡単だった。
2chで当時 私の死亡説が書かれていると
いう話を耳にし、実際その書き込みを見た
からだった。

「私 生きてるのに。勝手に殺さないで。」
ただ それだけだった。
BBSを作っておいたら過去の
EPIC SONY からの作品達はCD化
されないのですか?
と質問がきた。

言われてみれば復刻盤とかいって他の人達は
軒並みCD化されていた。中にはファンの人が
CD化をレコード会社に頼むと少しの人数でも
復刻盤として出されるとは聞いていた。

確かに、私のアルバムは日本のプログレの
高い評価を頂いたのもあったし、
1stはジャケットも横尾忠則氏が取ったとか
いう大きな賞も受賞したし、私も
力入れて作ったし、ミュージシャン達も
本当に素晴らしかった。
どの場面を切り取っても生々しく残っている。

詩を理解してフレーズを取ってくれる森園氏、
明るくて好きに行っちゃって!と言えば
そう弾いてくれる和田アキラ氏、
優しくて温かい包むようなベースの
渡辺建氏、正確で情感ある切れるような
プレイをしてくれた なつかしい
故・大村憲司氏、いつもドッシリ支えてくれた
青山純氏、通称・リカ氏・相良氏。久米大作氏。
飾ってくれたYasーka-zu氏、ピアノの佐山雅弘氏
ああ、書ききれない。Mac氏も。
そして全てをアレンジしてくれた中村哲氏。

私は あのアルバムに関しての権利関係を
知らなかったので、きな臭い匂いも感じた事も
あり、自分さえ我慢すれば済むと思っていた。

しかし、CD化に関して元の事務所スタッフに
聞いてみた。
返ってきた答えは「マスター紛失なのでCD化は不可能」
という答えだった。私は素直に信じた。
一緒に仕事をしてきた仲間を疑いたくなかったから。
それで事あるごとに、マスター紛失と答えてきた。

時は立ち、3.11という信じられない 全てがひっくり返る
壮絶な惨事が起きた。
徐々に音楽は また やろうとは思っていたが
一瞬 全てが真っ白になる衝撃を受けた。

世の中 カウンセリングなんて出るまくのない
状態だった。応援ソングが溢れた。
私は 悔しかった。

カウウンセリングでも習う。
頑張っている人に これ以上
何を「頑張れ!」と応援する言葉を贈れるの?

私は被災者の避難の話と、作曲に入った。

私に何が出来るだろうなんて考える余地もなかった。
夢中だった。
ひたすら、「頑張れ!」と応援ソングを歌う人達に腹を
立てながら、全く違う曲を書いていた。

歌の世界も 傾聴・受容・共感は必要なのではないか?
一緒に寄り添い揺れて…

私が そんな動きをしているうち どうしても
私が また音楽活動をするには過去の著作権などの
権利関係をキチンとしなければならない事を
教えられた。

残念な事に、当時のスタッフは誰も知らないと言う。
私は あきらめなかった。
いや 悪は正されていくのだろうと思う。
私は 善意の人達に巡り会えた。
深い処まで調べてもらえた。

何と 私のマスターは存在していた!!

私のために忙しい中 動いて下さった方々に
心から感謝したい。
当時 所属事務所とレコード会社とのゴタゴタも
内容を知らされた。
今は おかげ様で すっきりクリアになった。
望む人が多くいてsonyに頼めばCD化できる
くらいクリアだ。まぁ、あくまでも望む人がいれば…

なんて過去の話をして話は今に持ってくる。
私は、ずっと「男と女の歌を書けない」とか言われて
きた。書けないのではなく、作品を人前に出さなかった
だけ。家にはデモだらけだ。
多種多様で、何でもアリなのだ。

気にしていたのは、ずっと「キンキンした声」と
以前 高音域を指摘されていた事だった。
音域が広いので 私は上を出すのが楽しくて、
サビを作り、さらに大サビを作りと上へ上へと
展開させる手法を使っていた。

これは課題だった。
同じ音域で高音域を 耳にキンキン聴かせない唱法
を何度もチャレンジした。

誰でも歌える曲も書いてみた。
しかし プログレの部分は譲れなかった。
なるべく大袈裟でなく、わかる人には わかる音楽を
長いお休みの後のウォーミング・アップとして
アーティストなんてカッコイイ物ではなく、
単なる 創作屋の歌うたい屋の
「こんなモン 作りまっせ」というカタログ的要素も
あると思ってもらえたらいいなと思う。

幸運な事に今回も 素晴らしいミュージシャン達
理解ある旧知の仲間をプロデューサーに迎え、
私の主旨を理解してもらえた。

私は 誰の事も恨んでいない。
何でも時期があるという言葉を信じている。
自分の存在が少しでも何かの役に立てれば
後ろ指さされても良い。

フェイスブックを始めたもののメッセージ無しの
申請には困っている。
私は あなたを知らない。
あなたも 私を知らないかもしれないが、
作品を通して どんなヤツかを垣間見ている。
ウソが下手で不器用で損なヤツだ。

一緒に笑い、一緒に泣きたい。
私は 沢山の事に怒りを感じている。
だからこそ 沢山の人達と繋がって
語り合う機会が欲しい。

私は そうやって小さいながら一歩一歩
歩いて行きたい。
ずっと昔 神秘的なイメージを作りたいから
笑ってはいけない・メディア露出はしない・
髪を切ってはいけない…
などと言われていた時代はナンセンス。

私は地上に感情を持って、
他の人達と同じプロセスをたどりながらも
着地出来ずにいた。

やっとの帰還気分だ。
さて、「私」が待っている。

もしかしたら 大部分の人達が目を向けなくなるかも
しれない事に 目を向けるかな…
その時は よろしくお願いします。
きっと誰か そこに仲間がいるでしょう。

そんなわけで来月の30日
エイベックスから私の
きっと初めて聴いた人は頭が こんがらがる
新譜がでる。真意が わかった人は 凄い。

2013-09-15 03:17:54投稿者 : Nachiko
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    何故 また歌いだしたのか…

    いつの頃からか夜の しじま(黙・静寂)に輝く星が、
    私の街では ほとんど見えなくなった。
    大都会の喧騒の中 夜の帳(とばり)がおちて
    空を見上げ月の満ち欠けや星座を探すのが
    好きだった。

    特に夜の児童公園は
    何の人の気配もない空間で
    無人のブランコが
    無風の宙で揺れたり、
    ボーっと誰かの視線を
    感じたり 大きな伸びをするには
    私にとって
    第六の触感に触れ心地の
    良いものだった。

    自分のオリジナル・アルバムを夢中になって
    制作したり 細々とCM音楽などを創って
    大きなスタジオか自宅スタジオに籠る日々は、
    今思うと毎日に忙殺され 当時表に顔を出さない
    というブームが流行った頃の私には好き放題やって
    いた気がする。
    元々 引っ込みじあんだし目立つことを好まない。
    人を押しのけて自分が有名になりたいなどと
    全く思わない。ただモデル事務所に
    所属していただけで
    まさか自分が、この先何かやるハメになる
    などとは想像も出来ない事だった。
    そもそも あらゆる物を
    取り上げられて育った私には唯一許されていた
    クラシック・ピアノと声楽しか遊びがなかった。

    いざ歌いたくても人の歌を聴く機会もなく
    幼い頃から歌いたかったら自分で
    創るしかなかった。
    両親に隠れて深夜放送ラジオや
    アルバムを人から
    借りて聴きまくっていた時のエネルギーは
    今考えても
    乾いたスポンジが多量の水分を
    あっという間に
    吸い込むような感覚だった。

    友達交友禁止・TV・修学旅行も
    行かせてもらえなかった。
    私は常に“孤独”が友達だった。

    ある日 いきなり呼ばれて行った先が
    見学だろうと思っていたら、
    あららら…のCMソングを歌うことになって
    いて、突然渡された初見の譜面を歌わされた
    事から人生の方向が変わっていった。

    創作することは頭でっかちになることではなく、
    私にとって社会を映し出す事であったり、
    文学の文字の世界を
    楽曲化することとして楽しんでいた。
    そこには、猛烈な風刺があったり
    シュールな表現でなければ
    まずいだろうという遠まわしな手法が多かった。
    好き放題アルバムを多額のお金をかけて
    創らせてくれた事は
    とても ありがたかった。

    そして時は経ち 私のようなビジネスを
    求める人間でない者は、
    やれマスター・テープ紛失だとかいうウソも信じて、
     知らない裏で成されている事にも
    我関せず その後 何十年も誰にも真実を
    教えてもらえないまま過ごしてきた。

    創作の火は消えず、場所を移してシナリオの
    勉強をしたり、絶えず何かしらやっていた。
    一時は映画の試写会巡りを
    するのが楽しかった。
    狭い試写室でも嬉しかった。

    並行して何でもチャレンジする私は
    色々な事をしていた。
    棄てられた動物保護のため家を改造して
    病気の仔猫など
    失明の手術を免れるために3時間おきに
    薬を何カ月も塗る傍ら、他の犬猫の世話をし
    保健所からも引き取り、
    他の飼い主達の動物への冷たさに
    驚くばかりだった。

    実家では避けては通れない
    高齢の祖父の介護が待っていた。
    徘徊が始まれば素足で追いかけ、
    オムツから大便を
    投げつけられる日々もあった。


    その前に欧州に住んでいた友人から
    チェルノブイリで国内の食品が
     どう扱われているかを聞かされた時、
    ある処から唯一の原爆投下国の日本が
    欧州で売れないパスタ類を輸入し、
    日本でパスタブームが意図的に
    作られたなどと まことしやかに聞かされた。

    このチェルノブイリの事故の後
     母が たまたま無知ゆえ
    観光に行って驚いて、
    以来根っからの母の学者肌に拍車が
    かかり放射能関係の本が
    実家にズラリと並ぶこととなった。
    小出教授を知ったのは
    その頃だった。

    当時 チェルノブイリ事故の雨。
     知らないうちに雨が降り
    庭で遊ばせていたという長男に、
    その友達が癌保険を
    かけたのは言うまでもない。

    何かが おかしい。
    私の頭には常に警告音が鳴っていた。
    何なのか わからいまま、
    世の中が見えてきた。
    あまりのメンタル問題の多さ・自殺
    (報告されて表示されて
    いない数は もっとある)事に目がいった。

    私は このままでいいのだろうか?
    カウンセリングを勉強を始めメール・ネット
    ・対面式と、
    こなすうちに気付くことが幾つも出てきた。
    自殺危機介入に当たる度 確信へと近づいた。
    この頃 世の中は二ートを問題視され、
    わざわざ籠っている部屋から出そうと
    原因も考えずに行動する
    事を推奨する考えや行為が行われ始めた。
    二ートを扱って論文を書いた私は
    二ートを擁護する内容だった。
    今でこそ「モンスター・ペアレンツ」など
    普通になっているが昔から存在し
    表面化しなかっただけだ。
    今は筍のように乱立する
    心療内科や高額の
    カウンセリングの家族相談などあるが
    当時は、日本でしかニートはなくて
    海外では子供は ある程度成長すると
    実家を出て独立するものだと
    その時のアメリカ人の教授が話していた。
    日本の「恥じ」をテーマに
    博士論文を書いた先生だった。

    奥ゆかしい日本の「恥じの文化」が逆に
    働いている事実に
    私は日本人ゆえ気付かなかったことを知った。
    日本人は「世間体を大切にする傾向がある。

    これは「老人介護問題」
    「福祉の遅れに国民が憤れない事」
    「人前で良ければ他人に家庭事情を
    相談せず背負い込む」
    ことなど あらゆる方面に通じる考えであった。

    実際 クライアントさんを前に
    カウンセリングをしていて
    後味に残るのは、
    いかに人々が会話に飢えているか。
    雑談でもいい。ちょっとした愚痴でもいい。
    彼等は カウンセリングを受けなければ、
    受容・共鳴・傾聴
    の機会を得られないのだった。

    何て希薄な人間関係になって
    いっているのだろうと
    驚く出来ごとは幾つもあった。
    そして必ず、何かに責任転嫁をして自分を
    見つめ直さない。
    つまりカウンセリングでいう「気付き」まで
    到達するまでの時間が とても長いのだ。

    一人に50分として金額など
    ほとんで考えられないくらい
    頂いても、決して私一人なんて
    何の役にも立たない。
    せいぜい 運で自殺危機に介入し、
    消息不明になる寸前で
    力になれた事くらいで自分の微々たる力に
    情けなくなるばかりだった。

    私の日々は、環境的忍耐と
    自分が存在することによって
    召される前に何か役に立つことを
    したいという方向へ行った。
    潜入取材をしたり今思うと
    もがいていたのだろう。

    生きていれば 命の儚さも
    その年齢ならではの
    悲しさ・寂しさ・孤独に遭遇する。
    人は独りでは生きれない。

    私に一体何が出来るのか。
    それは今思うと その後にやってくる
    地球規模の福島の原発事故への嵐の
    静けさだったのかもしれない。
    妙なワサワサ感と、飽食で傲慢な人間が
    増える中
    いっこう減らない自殺率。
    おまけに離婚率は増え日本では、
    何が何でも相手に
    有り得ない罪を被せても親権を
    取った者が勝ちなのだ。
    何て 後進国なのだろうと またまた驚かされた。

    悶々とした日を送っていたある日、
    その日は来た。

    2011年3月11日。

    私の中で「ああ、来た!」と強く思った。
    急いでマーケットに行ったら
    どこも棚はカラッポ。
    衝撃的な出来ごとは
    私に残された人生観を大きく変えた。

    暫く国の体制に絶望するばかりだった。
    そうしているうちに、どんどん あらぬ方向に
    動いて行くのがわかった。
    あの年 暑い中 6万人集会に行き、
    そこで見たものは純粋に訴える人達と、
    あきらかに
    この騒ぎに紛れて乗りだしてきた人達だった。

    どこまで国の発表を信じるかを問われたが、
    このネット社会は
    海外メディアからのニュースが拾える。
    国は国の方針があり、
    即効で何も変えられない。
    嫌というほど利権の構造が暴かれ
    失望は増すだけだった。

    人には それぞれ出来ること
    役目 向いていること
    可能な事がある。
    あらゆる努力をした。
    この私の華奢な身体では現地で倒壊ガレキを
    片づける体力がない。
    少なくても子供達だけでも短期間の避難をと
    連絡をとったり色々したが、
    結局は その費用で行き詰る。

    そうこうしているうちに 本当に大変で
     一生懸命頑張っている被災地や
    被災者に「応援ソング」なるものが
    沢山出てきて
    取り上げられるようになった。

    まるで逆の歌ではないか?
    一生懸命生きている人に、これ以上
    何を「頑張れ!」と応援するのだ?
    カウンセリングの世界でも、
    メンタル医療の世界でも「禁句」なのだ。

    被災地に向けて 商売が始まった。
    福島や 他の地域で 水面下で不安と
    不信が深くなり報道の食い違い
    に、戸惑う人・無視する人と
    分かれていった。

    知れば知る程 救いようのない事実が
    浮き彫りにされていく。

    私は 自分の経験している生死を思うと、
    今問われているのは
    批判や怒りだけではなく、それらは
    他の人に任せて、
    今までファッション的な
    「癒し・希望ソング」ではなく
    私が信じる人智を超えたパワーは、
    どんな時でも
    「感謝」と「愛」を持っていれば
    想定外の奇跡が起こり、
    人は多大なパワーと宇宙からの恵み
    (太陽を恵みと考えずに何といえよう)、
    避難した子供と家族の
    家族崩壊・残された父親の自殺・
    孤独死などに
    光が届くと信じて
    「応援歌」ではなく、しみじみとした
    作品・共鳴出来る作品・辛い現実を忘れて
    異空間に行ける作品を提供して、
    もっと人々が繋がれる手段を
    今こそ発信したいと考えた。
    自分を賭けて音楽の世界を
    切り口に残りの
    人生を送りたいと思った。

    それから自分の過去の作品の
    権利関係を調べていくうち、
    あまりに、おぞましい汚い事が
    自分の身に降りかかっていながら、
    「マスター・テープ紛失」というウソで
    隠されていた事を知った。

    時として“知らない”とは
    お気楽で良いものだ。

    まさか また音楽をやるとは
    自分でも思っていなかっただけに、
    権利関係もスッキリした事もあり、
    自分に出来る事・スタンスを
    踏まえて こんな私でも
    失いつつある大切な物を
    発信したいと強く思った。

    何故 また歌いだしたのか…

    自分が見て来た美しい日本。
    そして今の日本。
    自分が生きてきて経験した事。
    感じてきた事。

    伝えたいこと、訴えたいことを話し、
    今度は人前に出て歌って行って
    人に 温かい気持ちになって
    もらえるような事をしたい。
    時に共に手を取り合い泣きたい。

    いつも あなたは独りじゃないよ、
    と伝えたい。
    たくさん愛されてるいるのだと
    気付かせてあげたい。

    自分が愛されていないと思うなら
    自分が誰かを、何かを
    愛する事から始めればいい。

    処分を待つ犬や猫一匹でもいい。
    おもいきり抱きしめてみて欲しい。

    私は 決して恵まれているわけではない
    と思うけれど、それは間違いだと気付いた
    時から静かに…静かに…
    「今」の扉を開け始めていたのかもしれない。


    2013-08-12 23:59:33投稿者 : Nachiko
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      訴えるとは

      私の街は蝉の声が聴こえない。
      ずーっと前 うるさいくらい蝉の声が聴こえた。
      洗濯物に付いていたり外階段の柱にいて、
      その鳴き声に圧倒されたものだった。
      蝉は種類が変わり、鳴き声で
      季節の移り変わりを感じたものだ。

      気付くとスズメも見ない。
      空は どんどん狭くなり、どうして
      あんなに高いビルに住もうと思うのか
      わからない。

      そもそも私は山の手線の真ん中の
      地域で生まれ育って今に至るので、
      交通では苦労してきた。
      かすかな記憶では都電。
      それからは時間の不定期なバスが
      最高の交通手段だった。
      南北線と大江戸線が開通した時、
      物凄く嬉しかった半面、古き良き街並みは
      大きく変わり、住人も変わった。

      面白い街だったのだ。
      頑固で意固地な商店主が多いのが
      麻布十番商店街の良いところでもあり、
      地下鉄開通の遅れた原因でもある。
      あの閉鎖的な街は他所者を好いていなかった。
      今では考えられない大名商売だったのかも
      しれない。代変わりして変化が始まった。

      傑作なのは「老舗」麻布○○という名の新参モノの
      知らない店が、いかにも昔からあったようなフリを
      してニョキニョキ出来たことだ。
      あれほどいた白人も減り、外国人といっても
      こちらも変化が生じていた。

      私は変わり行く街を見ながら色々な経験を
      してきた。語り尽くせないので徐々に書いていく
      のが楽しみだ。

      私が まだ肉眼で見えない世界との接点と
      その構造が理解できなかった頃、
      それらを恐怖だったり摩訶不思議な世界だと
      思っていた。

      おそらく血液のphの問題なのだか何だか
      わからないけれど肉類を食べていると、
      第三の目 いわゆるシックスセンスのような
      感覚は鈍る。精進料理とかは非常に理に
      かなっている。この辺は何故 肉食を続けると
      創作に響くのかが疑問だったが年月が経つうち
      徐々に理解できてきた。
      ここでは、かなりの量の説明になるので省く。

      そこに気付いてから私が体験した事は幾らでもあるが
      印象深いことに、全く霊とか信じない私が
      嫌という程 存在を知らされた出来ごとの
      オンパレードだったことだ。

      興味本位で やるものでは無いと今ならわかる。
      しかし私は暗い狭い瞑想ルームが欲しくて
      自室の押し入れを直してリラックスできる椅子を
      置いて、そのままにしていた。
      窓も何もない。空気も動かない淀んだ空間が
      そこに出来てしまった事など気付かず
      私は忙しさにかまけて過ごしていた。
      その瞑想ルームの存在さえ忘れていた。

      そんな在る日、いつものように寝ていたら
      妙な違和感で目が覚め、両足を向けていた
      その瞑想ルームから手が出てきて
      物凄い力で私はベッドの端まで引っ張られた。

      これって 突然で掴まれた足首の痛さと
      スコンと引っ張られた事と初めて見る
      瞑想ルームから出てきた両手を見て、
      声を上げるどころではなく、ひたすら身体は
      硬直するだけで微塵も動けなかった。

      久し振りに瞑想ルームを作ったことを思い出した。
      まさか これって夢だよね?
      ありえない現実だと私は必至に否定した。
      はかなくも それが崩れたのは翌朝
      しっかり跡が着いた赤くなっている私の
      両足首が、アレは夢でなかった事を知らせえた。

      それからの私の行動は早かった。
      原因究明である。自分の食生活と瞑想ルームに
      問題があったとして調べ抜いた。

      肉眼で見えるものは、どくわずかで そこにある物の
      96%以下であるというのを知って、何と この世は
      人間は少しの物だけ見て悩んだり苦しんだりして
      生きているものなのだろうと驚いた。

      淀んだ空気は 良い気を腐らせる。
      良からぬワケのわからないものが集まりやすくなる。
      よく長いトンネルなどで怪談噺が多いのは
      そのせいだ。空気の換気が悪いため
      色々な物が集まりやすいのだ。
      恐れることは無い。この世は たかが知れている。
      肉眼で見えるものなど わずかでしかない。

      とりあえず、友達に来てもらい自室の窓を大きく開け
      瞑想ルームの扉も いっせいのせで 思い切り開けた。
      不思議な感覚を味わった。目に見えないのだけれど、
      窓から ブワっと風もないのに何から外へ出て行くのを
      感じた。それ以降 足首を引っ張られることは無い。

      アスファルトの合間に ウサギが跳ねるのを見たり
      公園で草野根の影に小さな妖精を見たり、
      未だに戦争跡の児童公園で軍服を着た男性が
      滑り台で監視している姿を見て来た私は、
      人間の悲しみ・不安・絶望を食べて増殖している
      存在に気づくようになった。
      映画『モンンスター・インク』など非常に物語っている。
      人の心から発する周派・波動などは実験から見ても
      非常に大きな作用を地球に及ぼしている。

      今起きてしまった悲惨な現状を何とか助け合って
      乗り越える時期でもあるが、私達は最大の強力な
      パワーを発する物の存在に気付かなければならない
      時期に来ている。
      それは各自が持っている小さな「感謝の心」「愛する心」
      そして 相手に憎しみをぶつけるだけでは魂も進化
      しないので、自分の中を 一度空にして過去を手放し、
      今の現状が どんなに悲惨でも そこに感謝や愛を
      持つことによって 浄化が始まることを知って欲しい。

      太陽は膨大な浄化のパワーを持っている。
      その太陽が いよいよ変化が出てきて
      惑星も 見事な天体ショーを繰り広げてきている。
      昔から星と人間は密接な関係を持って生きてきた。
      宗教にも必ず突き詰めれば星の動きが出てくる。
      民俗学の話や、経済発展のために成されてきた
      信じたくない現状を知ることになる。

      だからこそ、忘れたくない。
      昔 六本木に東風という店があった。
      あるドラマーが雨だというのに私を街で見つけ
      お茶を飲みに誘ってきた。
      雨で憂鬱気分の私は彼の言葉に ハっとした。

      「しとしと 良く降るねー。

      こんな時 You は どう思う?
      俺は 雨が うんと美しく見れる処を探すぜ」

      そう言って 微笑んでいた。

      雨を 雰囲気よく 美しく見える場所を探すのって
      よほどセンスよくないと出来ない。
      そんな雨や雨音一つに感性を働かせ自分の世界に
      取り込む作業って素敵だと思う。

      時を経て、再び音楽を創りだした私が最初にやった事は
      感性が鋭くなるための食事の在り方だった。
      今 振り返ると断食を続けていたように思える。
      流れに身を任せていたら私は修行僧のようになっていた。

      面白いと改めて思う。同じ地で また再び創作を始めてから
      私は 音楽から離れていたつもりでも、しっかり
      必要な事をインプットしていたのを実感した。

      ケセラ・セラ…流れが私を未知の世界に運ぼうとしている。
      私は流れに身を任す。
      今時 私みたいな音楽を作っている人いないのに、
      ありがたく私の描く世界や、懐かしい昭和へのシャレタ音を
      実現化できる。

      さあ、立ち止まらず せっせと自分自身のことも
      何でも 外に怒りをぶつけるだけでなく、
      自分の持っている「感謝パワー」や「愛パワー」を
      発動させて、皆で繋がって訴えることを訴えていけたら
      効果は倍増する。憎しみや不安だけぶつけても
      太刀打ちできないことに気付けけることが出来る人が
      少しでも増えますように。

      日本の文化・風情を守るため よほど考えて立ち上がらないと
      ただの集団ヒステリック扱いや ヨコシマな物に
      利用される。これほど日本人が様々の選択を
      迫られたことは かつでないだろう。

      2013-08-08 04:05:36投稿者 : Nachiko
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        私的特技自慢

        人には それぞれ特技がある。
        わざわざ身につけた物もあるだろうし、仕方なく
        自己防衛のために身についた物もある。
        今日は私のチョットした奥儀の深い特技に関して
        書いてみようと思う。凄腕の自己防衛である。
        正しくは事故防衛と言った方がいいのかもしれない。

        私が幼い頃の記憶に“ニホンバシ”という言葉がある。
        父が よく使っていた言葉で、それは「トイレ」を
        意味していた。父方の親が買い物に日本橋にある
        デパートを利用していた事と、当時のトイレが和式で
        “二本足”で便器をまたぐという意味をかけて、
        うちではトイレに行くのを「日本橋に行ってくる」などと
        言っていた。

        私のトイレに関する記憶は、その「日本橋」から始まって
        いる。子供の頃 「日本橋」での居心地は良くなかった。
        幾ら思い出しても、痛みと足がフルフル震える感覚が
        抜けない。「日本橋」=痛い、の記憶は何処から来るのか。

        私は いつも空想するのが好きで狭いトイレ空間に入ると
        それが たとえ大きい方でも集中しない処があった。
        当然 腹圧などかけず、ただ便器をまたいで しゃがんでいた。
        そこで次に起きる事は体を支えている足がフルフルしてきて
        便器の中に、下着をおろしたまま落ちるのだ。
        いきなりグラっときて冷たさと痛みが同時にやってくる。
        小さい時は、それほどのショックもなく 又やったという感覚
        しかなかったのが、そのうち便器に墜落する事に妙な
        挫折感を感じるようになった。

        そんな私が、機会があって 俗に言うボットン・トイレ(汲み取り式)
        に出会った時は衝撃だった。
        便器に開いている大きな穴の下は悪臭が漂い中身も見えない。
        ほほう…こういう処に地獄というモノはあるのだろうかと
        考えた。何度か、形の違うボットン・トイレに出会った。
        その時は絶対に墜落しないように身体が硬直するほど
        緊張した。慣れれば大丈夫なのだろうけれど、慣れていない
        苦手感が、よけいに身体を固くした。
        幸いにもボットン・トイレには自分の体は墜落せず、スリッパや
        備え付けの履き物を落としたくらいで済んでいる。

        私にとって「日本橋」が変わり、洋式便座になったのは画期的
        な出来ごとだった。これで便器への墜落は気にしなくて良い
        と思うと、日常生活が虹色の光に包まれていくように思えた。
        まさに万歳!と便器を拝みたくなった。
        それが すぐに もろく崩れる一瞬の貴重な万歳だと知らずに。

        和式から解放されて喜ぶのは何十年も早い誤算だった。
        何しろ私は、洋式便器に絶大なる信頼を置いていたので
        まさか裏切られる事になるなどとは想像もできなかった。

        いつものようにトイレに入り便器に座った時の事だった。
        忘れもしない。信頼を裏切られた時の事は、しぶとく
        覚えているものだ。
        こんなにも信頼している私を、うちの洋式便器は いとも
        簡単に裏切ってくれた。早すぎる裏切りとでも言える。

        下着をおろして座った途端、尾てい骨と後頭部を激しく打った。
        そして次に、冷たい感覚と角度が違う景色が飛び込んできた。
        猛烈に痛くて自分の身に何が起きたのか わからなかった。

        スポっと自分の下半身が背中から倒れるように便器にハマって
        起き上がれない状況になっている事に気づくのに時間が
        必要だった。まさかの出来ごとで判断が出来なかった。

        これは挫折感ではなく、遥かに大きな敗北感だった。
        ここで私は洋式トイレに、女性用に便座がある事を
        意識させられた。
        想像して欲しい。下着をおろしたままの格好で、スッポリと
        便器に尻部からハマリ後頭部をぶつけ足は不自然に
        持ちあがり身体の自由がきかなくなる光景を。

        早く用を足したい時など、いちいち便座の確認などしない。
        そのまま座ってしまう。これは かなり何度も痛い思いを
        させられた。正直 参ったと思わされた。
        外のトイレは女性用・男性用と分かれているので、まず
        大丈夫なのだが、それでも場所によってトイレを兼用
        している処に出くわす。
        外出先でキチンとした服装で、便器にハマった時など
        衛生上も服についたシミや、打ち身で動けないことなど
        そこに言えないことばかりで問題は深刻化する一方
        だった。自分は何故 便器に落ちる星の下に生まれて
        きたのだろう?とか悩んだり、トイレに入ると一番に
        便座の位置を確認するクセがついた。

        そんな私も失敗を繰り返し、痛い思いをしながら
        とうとう行き着いたワザを会得したのである。

        「瞬間中腰ストップ・ポーズ」なるワザを身につけた。

        極意は深いのである。感覚的に、その場所に便座が
        なくて、ある程度座っても さらに腰を下ろす態勢に
        なると、そこで身体が瞬間的に中腰でストップする!
        というワザで、そのストップと同時に尿意まで失せる
        という優れたワザである。

        これは自慢ではないが、どんなにトイレを我慢していても
        そこに便座の気配が無いと感じた途端 尿意消失と
        中腰でストップ・ポーズ姿勢になるなどという高度なワザを
        特技と言わなければ何と称したら良いかわからない。
        このおかげで、私は「日本橋」の時代から思うと
        トイレに関しては難易度の高い仕様者として認定されても
        良いのではないかと自信を持って言える。

        これは無敵である。
        たとえトイレが1個しかない場所でも安心出来る。
        このワザを得とくするまで、どれだけ痛い目、恥ずかしい目
        に遭い、時間とメンタルを鍛えられてきたことだろう。

        誰でも自慢したい事はあるものだ。
        私だって特技があると自慢したかった。
        あなたは出来ますか? 便座の位置を確認するなんて
        ダサイ事 まだやっていませんか?

        もっとも、これで墜落は無くなって、めでたしなのだが…

        今は出先では、たまにある時間差発射のウオッシュレット。
        これは 調子が悪いのだと思って油断して見ると、
        突然 顔面や服に噴射してくる。

        自業自得なのは、ウオッシュレットを使ってストップしたはずが
        間違って、違う処を押してしまい立ち上がった後 うしろから
        噴射されることだ。

        まぁ、何はともあれ 墜落は骨折したら病院でも説明しにくいので
        今は ウオッシュレットの水を たまに被っても平和だと思って
        暮らしている。

        2013-07-28 03:58:05投稿者 : Nachiko
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          花火・華火

          湿度が高くて、じっとりした日が続いている。
          気分的に“花火・華火”について語りたくなった。
          ここでは花火を華火で統一して書くことにする。

          華火といえば一番古い印象は、子供の頃。
          その頃は華火ではなく、花火という感じだった。
          友達も作らせてもらえなかった私は夕飯後
          小さなバケツに水を入れ、ゴミ袋と近所の駄菓子屋さんで買った
          手で持つ花火を持って家の前でやっていた。
          まだ街も こんなに明るくなくて月がよく見えて、夜という雰囲気
          が、子供心に特別な感情を増長させていた。

          一番好きなのは線香花火だった。2種類ある線香花火。
          細いヒゴのような線香花火より、濃いピンクの紙で
          出来ている線香花火の方が好きだった。
          紙が持ち手の線香花火は途中から出るチカッ、チカッ
          という細かい火花が多いし 長く楽しめる。
          何より線香花火独特の あの中心の丸く膨らむ
          火の球の部分が落ちると花火は終わるのだけれど、
          紙が持ち手の線香花火の火の球部分は大きくなって
          いきながら頑張るのだ。落ちそうで落ちない。
          こちらも落ちないようにと願いながら手で持っている。
          その落ちそうで落ちない頑張りが、私には
          トイレを我慢しているような力みを感じるのだ。
          時として 大きい方を我慢して ウンウンと耐えている
          ような健気さに心を打たれる。
          足元に置いた 蚊取り線香の匂いと混じって、
          この線香花火は私の中に深く刻まれていった。

          そして月日は経ち、この線香花火で ちょっとした事
          を大人になって やらかした結果があった。

          あれは2thアルバムをレコーディングするので
          伊豆のスタジオに合宿で行っていた時。
          何時間もブースの中にいて少々疲れ気味の
          私は スタジオのロビーの灰皿の上で線香花火を
          やった。煙がモクモク立ち、派手に小さな火花が
          出て火薬の匂いが充満した。

          自分が何をしているのか自覚がないって今思うと
          スタッフや周囲に申し訳なかったという事なのだけれど
          私には「へ? こんな事で? 何で?」の次元だった。
          火災報知機のせいなんだか何だったか覚えていないが
          管理人が飛んで来て大騒ぎになってしまった。
          どうやらスタジオのロビーの灰皿の上で花火をやる人は
          居なかったらしい。それは新しい発見に思えた。
          それだけではないけれど、私は何をやらかすか
          わからない人物としてスタッフから信用がなくなった。

          すっかり そんな事くらいで…と思ってから、
          幼い頃の孤独な花火は、さらなる華火を求めるように
          なっていった。

          花火愛好家にとって年齢など関係ない。
          手持ち花火から始まって、店で売っている大きな
          ドラゴンタイプの花火へと心は動いていった。

          よく広い処でドラゴンタイプのに点火して喜んでいる
          光景は見るが、そんなのでは満足できなかった。

          普通に仕事をしたり生活をしていても花火が私を呼ぶ。
          車には いつも多量の花火を積んでいた。
          今は 海の家とかも時間で閉まるし、花火禁止の場所も
          あるが 抜け道の場所を探すのも楽しい。

          夜 月がきれいだと、月の光が美しく海面に滲んで見える
          場所を探しに友達と月を追いかけ海岸線を走った。
          勿論 車の中はピンクフロイドかギルモアのソロを
          フルヴォリュームでかけながら。

          そして適当な場所を見つけると花火の準備をする。
          数人で行くから手分けしてするのだ。
          海岸に落ちている空き缶を沢山皆で拾い集めることから
          スタートする。決して 海岸のゴミ拾いなんて優等生がやる
          ような理由ではない。華火の準備なのだ。

          拾い集めた空き缶を砂浜の適度な場所にギッシリと並べて
          全体が丸くなるような配列で、とにかく沢山並べる。
          そこで まず下準備が終わる。そこからが日によっての
          模索になるのだ。持ってきた花火の種類や量によって
          バリエーションが色々出来る。

          並べた空き缶に、まずロケット花火を持ってきた分全てを
          それぞれの飲み口に突き刺す。何百本も買ってあるから
          相当な量のロケット花火の両が空き缶に刺さることになる。
          そして、持ってきたドラゴン花火を空き缶を並べた丸い円の
          周囲に、ありったけ並べる。空き缶にはロケット花火だけでは
          なく、何連発ものも刺す。ドラゴン花火の外に太い様々な種類
          の置くタイプのを並べる。そして端っこにはネズミ花火類を置く。
          ここまでで、かなりワクワク感で一杯になる。

          そして……大きな火花が出る手持ち花火でドラゴン花火に
          点火して少し走って、その場から離れるのだ。

          いやぁ~、海岸が 凄いことになる。
          これまでの静寂を破り、寄せては帰る波の音は消え、
          月明りの闇は、ピューピューという音やドカン ドカンという
          騒音が支配する。目の前は、ひたすら花火が やや華火に
          変わったような鮮やかな火柱が立ち、妙な壮快感が
          空に広がる。
          たまにロケット花火が自分の方向に向かってきて
          ヤケドしたりするのは多少のリスクとして納得していた。

          こんな事 随分やっていた。
          海岸だけでなく、夜中に世田谷の大きな公園に忍び込み
          何度かやったし、打ち上げ花火の後の片づけも
          達成感があって楽しかった。

          その内 花火をやれる場所を探せなくなり、一旦やらなくなった。
          私といえば、月を追いかけて行くか花火なので、
          ネオンには程遠い世界に生息していた。

          それからは、いよいよ花火は華火になっていく。
          ずっと前は家から東京湾華火大会が見えた。
          そう、最初の頃は「東京湾華火大会」と言われて
          記されていた記憶がある。それが段々と高いビルが建ち、
          今では少し上空に華火らしきモノの気配と大きな音が
          聞こえるだけになった。

          だから、私は隅田川の華火大会に夢中になっていた。
          早くから場所取りをしたり、どこの場所が どう見えるのか
          それは真剣だった。お金を出して屋形船で観ようと
          しないのが私流なのだ。

          花火愛好家としては用意された良い場所に浴衣を来て
          行くのではなく、汗をかきながら自分の足で色々な
          角度を考える事に意義があった。
          場所によっては近すぎて、モロに灰を被るので透明傘を
          さしながら華火を観ていたこともある。
          たかが華火ではない。洋服は灰だらけになるのだ。
          キツイ火薬の匂いがアドレナリンを出す。

          あちこち華火を観に行って、自分は花火師になりたかった
          とか思ったくらいだ。綿密な火薬の計算、地味な作業が
          一瞬のうち夜空に大きな華を咲かせ散る。
          派手な爆音と共に、月を消し 空を独占する。

          飛行機の中から華火を観ると、球状になっていて
          これも面白い。中途半端な華火大会は欲求不満に
          陥る。好きな物は好きなのだから仕方ない。

          華火に関する私の想いは尽きない。
          いい年してと思われるかもしれないけれど、
          花火を熱く語ってしまうのだ。
          華火を十和田湖で観たのは趣も違っていて
          印象に残っている。大抵 あの人ゴミで参るのだが
          華火に関しては我慢が出来るという根性を持っている。

          今じゃ、朝起きると携帯のアプリで ひたすら景色を
          選んで花火が上がるのを見ている。
          やっぱり音楽と同じで現場に行かなければ、
          迫力も臨場感もない。
          私の華火好きは 生涯治らないのだと思う。

          2013-07-04 16:55:23投稿者 : Nachiko
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            梅雨といえば・・・

            今は梅雨の真っ盛り。今年は降ったり止んだりで陽気が変だ。
            梅雨と言えば紫陽花を思い浮かべるのが一般的かもしれない。
            しかし私は毎年 この季節になると思い出す事がある。

            それは…教習所通い。

            毎度の事とはいえ私の両親はチョット変わっていて車の免許を
            取らせてくれなかった。まぁ、何でも反対するのが彼等の趣味
            でもあるから、何をするにも干渉されないように努力が
            必要になる。

            どーしても車の免許が欲しくてアレコレ考え行動に移すまでに
            時間がかかった。
            傘をさす梅雨時なら外出時も見つかりにくいだろうと思った。
            誇れるモノといえば病的方向オンチの私が車を運転するなんて
            無謀としか思えなかった。
            でも身分証明書にもなるし、どーしても欲しかったから後先の
            事も考えず某教習所に通うことにしたのだった。

            とにかく素早く免許を取りたい!
            その気持ちだけは とても強かった。
            しかし幼い頃 父親が交通事故に遭って親から「車は恐い」
            と散々擦り込まれていた。恐いモノだけれど免許は欲しい。
            この矛盾した気持ちが忘れられない教習所通いにしていた
            と今なら笑って言えるが当時は大真面目だった。

            その年は雨のよく降る梅雨だった。スリリングな家からの脱出をして
            早歩きで電車とバスを乗りついで教習所に向かう日が始まった。
            最短で取ろうと思っていたので学科を詰め込み、すぐ翌日に試験を
            受けるというローテーションを組んだ。
            学科は平和だった。私の友達は最初の適性テストで落とされたと
            言っていたが本当だろうか。確かに落とされても仕方ない性格の
            友達だけど、アレって本当の事を書いたらマズイと思った。

            学科は待ち時間と組み合わせが面倒なだけでテストもスムーズで
            全く問題はなかった。
            それが実習となると、これが思い出の宝庫なのだ。
            初めて教官が教習所の中で車に隣りに乗って来た時、やたら
            大きな声で怖くてエンジンをかけることが出来なかった。
            こんな車の中で怒鳴って何になるのかしら?と思って、つい顔を
            見てしまう。それが勘に触ったのかエスカレートして怒鳴られた。
            最初は「ひぇ~、おっかない教官」で終わった。
            次に当たった教官は初対面なのに、やたらネチネチ来る人で
            何度も私に「ナチコさんって名前で呼んでいい?」とか聞いてきた。
            忘れもしないプレスリーが おへちゃになって無理してシナを
            作っているような感じの教官だった。エンジンをかけてギアをDに
            入れるのはいいが、どうしても怖くてアクセルを踏めなかった。

            そう。私は免許が欲しかっただけなのでAT限定にしたのだった。
            アクセルを全く踏めないので教官がイライラしているのがわかった。
            教官恐怖症になりそうだと思った時、初めて指名出来る事を知った。
            運よく女性でパリパリした教官が付いた時から、毎回その教官を
            指名することにした。これでこの世の春が来ると思った。

            甘かった…教官が変わってもアクセルを踏めない。
            ずっとクリープだけで教習所内を走る事になった。
            自分が運転席に座ってハンドルを握っているだけでも
            凄い事なのに、これ以上私に何を求めるのかと思った。
            S字カーブも、ゆっくり ゆっくり。

            ある日 教官に少しアクセルを踏みなさいと言われ踏んだ。
            見事に縁石に乗り上げてばかりいて前に進まなかった。
            縦列駐車などポールを全て倒してしまい入れなかった。
            勿論 車庫入れなど夢の夢。それでも時間を乗っている
            ので次へと進む。何だか、とてもズルをしていたのか、
            それとも教官が異常に甘かったのか仮免のテストになった。

            この日は指名する教官ではない。
            梅雨で雨が降っているのに、こういう日に限って雨もかなり
            降っている。ワイパーなんぞ動かさないと前が見えない。
            このワイパーが当時 私には敵だった。
            どうしてもワイパーに目が行き、ワイパーに合わせて
            首を動かしたくなってしまう。多分 首を揺らせていたのだと
            思う。ハンドルを握りながらワイパーと同じに首を振って
            恐々とクリープさせていると教官が横で「アクセルを踏む!」
            と怒鳴る。また縁石に乗り上げ、ポールを全て倒して行く。

            仮免の時 大雨なのは何故?
            さっきまで小雨だったのにと落ちる度に思った。
            何の偶然か3回仮免で落ちて4回目で通った。

            さて…恐怖の路上教習にとなった。
            また指名している教官に頼んだ。
            私に40キロで走れと言ってくる。無茶な話だ。
            だって車は恐いって擦り込まれて育ったのだから
            スピードなんて出せないではないか。
            ましてや車線変更などハードルが高過ぎる。
            目視するとハンドルを見た方へ一緒に動かしてしまう。
            教官は命の危険を感じたらしかった。
            何度も教官の椅子の前のブレーキを踏まれた。

            しかも路上教習に出ると、どういう訳か私はトイレに
            行きたくなって我慢ができなくなるという不思議。
            途中でトイレのあるビルや場所に逸れてコースを取る。
            路上教習の度にトイレなので教官も慣れてしまい、
            何処のトイレが良いかとか考えてくれるようになった。
            詳しい事は知らないが路上教習って走るコースが
            決まっていたような気がする。
            あれだけ路上教習に皆出て行くのに私が出て行く先に
            同じ教習所の車を一台も見たことがなかった。
            病的方向オンチの私は教官に言われるがままに、
            「はい、右に曲がって。左に曲がって。」という声だけを
            頼りに最終地点の教習所に戻るという日が続いた。

            そして 考えたくもない高速道路での実習は指名教官では
            なかった。違う教官が担当するらしく、私が車をノロノロ
            動かすとビックリして「60キロは出して」と言われた。
            いや…無理ですからと内心思いながら返事だけして
            ノロノロ走って高速道路に向かった。

            何と高速道路の教習は100キロ出さなければいけない
            と言うではないか。
            横で教官が「はい。アクセル踏んで100キロ!」と
            掛け声をかけてくる。
            無理…無理…無理

            何度同じセリフを教官に叫ばせただろう。
            「はい。アクセル踏んで100キロ!」
            その声は 虚しく肩すかしを食い続けた。

            どうしてもアクセルを踏み込めなくていると教官は
            「はい。アクセル踏んで100キロ!」と言いながら
            何と 私の方に身を乗り出して私の足元のアクセルを
            踏んだのだ。

            その後の教官の言動が面白かった。
            すぐに元の場所に足を戻して姿勢を正すと、今まで
            恐い顔をして座っていたのに別人になっていた。

            「見た? 見た? 見たよね。確かに100キロこの車出した
            よね?」と嬉しそうに言ってきた。

            一瞬の出来ごとで 私には よくわからなかった。
            ただ教官が満足して機嫌が良くなった事だけわかった。
            私は こうして何とか卒業試験を迎えた。

            3人一組で1台の車に乗ってAコースとかBコースとか
            言われて走る試験だった。
            ところが、これもまた困った事に方向がわからない。
            第一走ったこともない気がする。

            ここで私は賭けに出た。
            どうせ方向がわからないのだからAコースだけ見て
            地図を見て前日 協力者を得て下見とコースを
            覚えた。コースが5つあって、とてもじゃないけれど
            覚えられない。Aコースに当たることを祈るしかない。
            ここで他のコースを指定されたら次の機会にAコース
            を指定されるまで試験を受けるつもりだった。

            ラッキーとしか言いようがない。
            見事にAコースが当たった。無事卒業できた。
            そして鮫洲に試験を受けに行って学科だけなので
            これは通った。

            そんな事があって、やっと取得した免許だった。
            その女性教官とは教習所を終えた後もハガキの
            やり取りをしていた。
            そこで私は自分が操業出来た理由を知った。
            何と翌年に、そこの教習所は無くなってしまうので
            在校生を全員卒業させなければならなかったらしい。

            特別優しい待遇を受けていると思っていた私はアホ。

            さて免許を取ったら車が欲しくなる。
            車を買ったら親にバレる。困ったと思っていたら
            父親が重い椎間板ヘルニアで入院することになった。
            さすがに入院に至るまで歩行も出来ない父は悲鳴を
            上げた。これ幸いとばかり、実は車の免許を持ってる
            と話すと、余程辛かったのか退院後も父の仕事の
            運転手をやるという条件で車を持つことを許された。

            わーい! この年にして やっと自分の車を持てる!
            喜んだのは束の間だった。
            住んでいる場所を考えていなかった。
            車線の多い大きな通りばかりの都心の真ん中である。
            いきなり六本木 赤坂 青山 渋谷と運転するはめに
            なった。しかも用事で首都高に毎日乗るわけで…

            方向オンチの私はまず自宅に帰るのタッチする場所を
            覚えた。タクシーに煽られ、ハイヤーに煽られ、商業車に
            煽られ、トラックにはライトをアップにされ…
            世間は甘くないなぁと しみじみ思った。

            恐い恐いの私が仕方なく、交通量の異常に多い道路を
            走るなんて誰が想像しただろう。
            教官が見たら卒倒したと思う。
            車線の取り方がわからなくて曲がりたい処で曲がれず、
            ナビを使って迷子になりの連続で毎日が過ぎて行った。

            人の車に よくぶつけなかったと自分でも感心する。
            恐いから ぶつけたくないからと思って運転していたら
            普通に東名高速を120キープで走れるようになっていた。
            坂道だと140キロくらいになるので気をつけて一番楽な
            90キロで走るというパターンになった。

            梅雨のこの時期 公共の乗り物が苦手で出不精だった
            私が車無しでは生活が出来ないくらい毎日使っている。
            以前は往診専門だった獣医にも自分の車で連れていける。
            逆に、よくあんな都心を運転していて恐くないねと
            同性の友達に言われたけれど、通りが広い方が恐くない。
            慣れとは そういうものなのかと思う。
            私は小さい車が好きだ。家の周囲は駐車スペースもない
            くらい買い物に出ても車だらけだし、坂の多い街だから
            なまじ大きな車や馬力が必要以上あっても意味がない。
            さすがに坂が多いので多少の馬力は必要だけど、
            自分の空間を作ってくれるからポンコツ車でも愛する。

            ワンコを散歩させながら公園で紫陽花を見ると思い出す。
            ワンコは何を言っているのか わからないだろうけれど
            私が車を運転出来るようになるのに、こんなに大変
            だったのよ、と話す。
            紫陽花の脇を歩きながら今年みたく雨の降らない日のある
            梅雨だったら、あの時もっと早く免許を取れたかな?
            などと雨のせいにしてみたりする。
            過ぎてしまえば思い出。ナビとは未だに相性が悪い。


            2013-07-01 03:15:32投稿者 : Nachiko
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              肉眼の世界の話④

              私は基本的にオカルトの世界は あまり信じていない。
              どちらかというと、それは浪漫であり美しく儚く、そして情念であり、時として尾崎紅葉の文学
              や、その門下生の泉鏡花などが かもしだす幻想的で、この世的ではない それこそ
              肉眼で見えない何かが そこにある不思議な世界から発する高尚な美を感じる。
              小泉八雲しかり、私にとって肉眼で見えない世界を紹介した文学が、いつのまにか幻想的な
              文学から怪奇物として扱われていったのは不可解に感じていたのは幼い頃からの実感だった。

              何故なら夏になると、決まって扱われる“怪談噺”など特別不思議な事でもないし、
              恐がることでもないと思っていたからだ。
              細かく上げれば私の毎日は、怪談噺好きにとってはネタの尽きないものになるのかもしれない。
              それは肉眼で見えない世界を知らないから“怪談”などと言われるのであって知っていれば
              ごく普通の事になる。

              私は映画で『シックス・センス』を観た時 とても自然に感じた。
              映画では、わざわざ赤という色を使って観る人に目印を付けて教えていたが、
              ごく自然な事で誰にでもシックス・センス=第六感なるもの、いや もう一つの眼がある。
              自分が気付かないうちに、わざわざ閉ざしているだけだと思う。
              毎日他の事に忙殺され耳をすます事、自然を眺めること、人をじっくりみつめること、
              音を聴くことを辞めてしまっているのではないか・・・・

              オカルトチックな噺を又一つ書くと こんな事があった。
              いたずら好きの友人がいた。どちらかというと自虐的な面のある人だ。
              ある夜 私と、その友人と もう一人で ただドライブに行こうと言う話になった。
              何か そのいたずら好きの友人Sが嬉しそうなのが気になったが、気持ちの良い季節だった
              こともあり、深夜のドライブという事になった。

              好きなギルモアのソロを大きな音でかけて(ドライブ向きではない気がするのだけど)
              わいわいしながら高速を飛ばしビュンユン行った。
              私は万華鏡のように見えるメガネをかけて景色を見て喜んで時の経つのも忘れていた。

              ふと気付くと、ある道路で車を停めてSが私に車から降りて外の空気を吸うように促した。
              言われるままに車から出ると、走ってきた道路と その右に道路がもう一つあって正面に
              今まで来た道路と同様に、この先がトンネルになっていた。
              私達が来た道路は、その右側の道路の脇に作られた感じだった。
              その右側の道路の先のトンネルは入口が潰されていた。
              私達が走ってきた道路のトンネルは煌々とランプが点いていて対照的だった。

              「何? これ?」 その異様な風景に一瞬肩がすくんだ。
              外に空気を吸うために出たはずなのに、とんでもない。
              音がする。派手なクラッシュ音が時々聴こえては闇に飛んで行く。
              Sはニタニタしていた。私は あたりをキョロキョロ見渡した。

              よく見ると左側に川があった。呼ばれるように川に近づいた。
              「ウェッ…」 私は思わず目を覆った。
              確かに見た。真っ暗な川から人の手が何本か水上に出て岸辺に伸びていた。
              うそでしょ、下手な怪談噺じゃあるまいし。それが その時の感想だった。
              しかし、どうにも気分が悪くてムカムカするし、寂しくなるしで、目の前のトンネルが
              二つ並んでいるのを見ながら凝視し立ち尽くすことしか出来なかった。

              どう考えても、ここで沢山の幽体が肉体と分離させられている。
              それも不本意に、強い思いを残して。
              悪いことに自分が分離させられたことにも気づいていない幽体が、かなり居る。
              何て非科学的的な事を書いているのだろうと思いながら書いているのだけれど
              実際 経験したのだから仕方がない。その後起きた出来ごとを思っても。

              私は、すぐにここで事故が多いから新たに今来た道路を脇に作って、本来の道路は
              右側のトンネルを封鎖してある道路でしょ、とSに言って不快感丸出しにして、
              すぐ帰ろうと言った。こういう場所に面白半分で来るものではないのだ。
              人の“悲しみという波動”が残っている。もし私とか同行した人達と合ったら、どうなる?
              私の言葉でSは半分驚きながらも、やはり事故多発のために今までの道路とトンネルを
              潰して今日来た道路とトンネルを新たに作ったらしいと話してくれた。私を試したらしい。
              冗談ではない。多分 この人とは この後 付き合いはなくなるだろうとピンときたら
              親しかったにも関わらず何故かプッツリ消息不明になった。

              で、そのトンネルから帰宅した後日談が私にとっては最悪だった。
              当日の明け方 猛烈な腹痛に襲われ救急車を呼ぼうかと もがいた。
              場所は丁度腹部。お腹を壊した痛みとは全く違う。物凄い激痛なのだ。
              口もきけない。動けない。気絶する寸前やっと意識がある感じ。
              数分激痛で脂汗をかき納まってくると身体が、まるで金縛りのように硬直していた事に
              気付く。救急車を呼ぶにも呼べない状態は4日間続いた。
              それなら痛くない昼間に病院に行けばいいのにと思うのだが、たかが数分間だから
              今夜こそ激痛は来ないだろうと高を括って行かないでいた。
              そして5日目の明け方…また激痛かと思った時 耳元でバイクのガチャーンという音
              に聴こえたが、そんな音が鼓膜に響いた。何事かと目を開けたらベッドサイドに
              見たこともない男の人がシルエット部分が強かったけど斜めに倒れるように、居た。

              徐々に腹痛が始まりそうな気配がしてきたので、思わず叫んだ。
              「わかった。わかった。あなたは あそこでバイクで事故を起こしたのよね。
              でも私には、どうしてあげる事も出来ない。存在は気づいてあげれたけど。
              だから約束する。私を あなたが居心地良い処に連れて行ってくれる人が居る処へ
              連れて行って。私には まだまだ理解できないことだらけなんだから。」

              今でも そう言ったのはハッキリ覚えている。そのあと始まりかけていた例の激腹痛は
              治まり、翌日から全く無くなった。これ幸いと喜んだものである。
              数日後 友達に誘われて ある店に食事に行った。知り合いのミュージシャン夫妻もいて
              なーんだ そういう店かと思った。大根おろしとポン酢が美味しかった。
              噂が入って来るのに、そんなに時間はかからなかった。
              そこのマスターが私が帰った後 言っていたらしい。

              「誰だ? 随分重たい奴 店に連れて置いて行った奴は…」

              私はといえばスッキリ。気のせいにしては面白いくらい。まるで薬でいえばフラボですか。
              そのマスターに関して、後から色々噂を聞いた。
              あんな場所で店をやっている理由も何となくわかる。
              肉眼で見えない世界相手に仕事をしている連中が たむろうのもわかる。

              私の知人で外タレのワールド・ツアーに参加してきた人は普通に言う。
              「普通にザクザクいるって。そしたら 知らないふりするか、何もしてあげれませんって
              断って普通にホテルで寝るに限る」と。

              やはり“怪談噺”たるもの風情で優雅で、ただ恐いだけでは淋し。
              本当の怪談噺は この現実世界で行われている。せめて物語は心理学でいう
              恐怖映画が心理の安定をもたらすっていうプラスのものであって、そこに
              美学を盛り込んで欲しいなどと思ってしまう。
              本物の肉眼で見えない世界からの発信は膨大なメーッセージすぎるから…

              2013-06-18 16:43:03投稿者 : Nachiko
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                肉眼の世界の話③

                肉眼の世界から離れた話ばかりになってしまうが、私の日常は そんな事に
                満ち溢れている。今日は「眼」でなく「匂い・臭い」という眼に見えない世界について
                強力に焼き付いて離れない臭いの事を書こうと思う。

                人間は どうやら五感の他に 第六感だか 第七感だかを持っているらしい。
                私は 日頃 匂い・臭いにも 敏感で 不思議な事が良くある。
                中には 柔らかくとろけるような匂いを放つ赤子から 何とも言えない すえた畳が
                腐ったような臭いを平気で背負って歩いている人もいる。

                女性は 気位の高い人は独特の匂いを放つ。何故だか わからない。共通した香りがする。
                男性は ウソ付きな人や裏切る人は これも また独特の匂いがする。
                悪いことや 女性を裏切ってきた直後は むせるような この香りをプンプンさせてくる。

                満員電車に乗ると とにかく辛い。
                色々な香りが混じって 私の鼻腔を刺激する。
                単なるワキガとか 体臭がキツイとか そういう類とは違う。
                これは本当に不思議だといつも思っている。

                そんな中で今までで最大の悪臭を嗅いだ事がある。生涯忘れられない。
                思い出しても吐きそうになる。二度と嗅ぎたくない。絶対に嫌だと思う。

                あれは はるか昔の事。赤坂の方に向かって車を走らせていた。
                友達数人と一緒に楽しく会話をしながらだった。
                それが ふと反対側に建っているホテル2つを見比べると右側が照明がついて
                何やらイベントの幕とかあるのに、やけに暗く見えて気になった。

                隣りのホテルが煌々と明るく見えて、右のホテルの暗さは異様だった。
                思わず車を脇に寄せて止めてもらって窓を開けた。

                その時だった。強烈な悪臭が外から入ってきた。
                それは多量の魚の腐った臭い、動物の腐乱する臭い、いや この世の悪臭とは
                思えない激しい強烈なモノだった。あまりの凄まじさに すぐ窓を閉めた。
                一緒にいた連中は何も感じなかったようだった。
                私だけ気分が悪くなり、私なら絶対 右側のホテルには泊まらないと思いながら
                帰路についた。その日は何か あの激しい悪臭で食欲もなく早々に寝たのを覚えている。
                それほど昔の出来事であるのにも関わらず、衝撃的な臭いだったのだ。

                その翌朝 早くに電話で起こされた。一緒に車に乗っていた友達からだった。
                何と あの私が この世の悪臭ではないと苦しんだ臭いを放っていたホテルが
                火災を起こし 沢山の人が亡くなったという。
                慌ててTVをつけた。ちょうどニュースで悲惨な救出現場のVTRや現在の様子を
                流していた。ああ・・・あれは「多量の人間が焼けて死んでいく臭いだった」
                と はじめて気づいた。

                その事件がコレ↓に貼っておくホテル・ニュージャパン火災の概要だ。

                概要 [編集]

                火災は、1982年(昭和57年)2月8日の午前3時24分に発生。主に火元の9階と10階が中心に同日12時半過ぎまで9時間にわたって燃え続けた。は7階にまで達しており、延焼面積は約4,200平方メートルに達した。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12、日本人11、韓国人8、アメリカ人1、イギリス人1[1])・負傷者34名を出す大惨事となった。東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客[2]の寝タバコが原因であった。廊下での焼死など火災による死者が多かったが、有害ガスを含んだから逃れるためにから飛び降りて命を落とした人も13人いた。なお、9階と10階の生存者の中には火災で非常口から避難ができず、シーツロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。

                この火災では日本時間午前3時24分出火[3]、12時36分の鎮火まで、およそ9時間に渡って都心を真っ赤に染めるように燃え続けた。 この日の宿泊客は442人。うち9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは台湾韓国からの札幌雪祭りツアー(61人)の宿泊者だった。

                ……………………………

                この時のショックは かなり後を引いた。過激で暴力的なほどの あの悪臭は
                人間の肉眼で見える世界には存在しないと言いきれる。

                まだまだキリのない私の「肉眼の世界の話」は肉眼で見えない話と
                交差しながら続いていく。


                2013-04-10 20:26:37投稿者 : Nachiko
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                  肉眼の世界の話②

                  色々な体験をした中で、コレは・・・と思った体験から感じたことを書こうと思う。

                  まだ右も左もわからない私は“無限の世界”に とても興味を持っていた。

                  そこには鳥獣戯画から宇宙、見えない鏡の奥に広がる何か、そして当時は禁書とされていたアリスター・クロウリーの世界まで 様々だった。

                  今思うとインド哲学の世界、ヨガ、瞑想が大好きだったWHOのピート・タウンゼントの影響で、アリスター・クロウリーはZepのジミー・ペイジの影響かと分析できる。

                  ちょっと特殊な家庭環境だった私は ある意味で本の虫、何時間もピアノを弾く、習っていた歌科の先生から教わった発声の本で毎日 大声で TV・ラジオを禁止されていたので それしか発散する事のない状況に置かれてきていた。

                  あまりに毎日 ピアノを弾きながら発声ばかりやっていたので母が うるさがり 生まれて初めて誕生日にプレゼントをもらっただけど、「あなたの声で ぬか味噌が腐る」と言って冗談かと思うほど大きな焼き物の漬物の壺を渡されたのをハッキリ覚えている。

                  話は逸れたが、そんな毎日の中 私は どうしても病院での あの不思議な体験から、目に見えない何か・・・・に異常に惹かれ それが良い物なのか悪いものなのかの判断も関係なく少ない情報を頼りに日本橋丸善の洋書コーナーに行った。
                  アリスター・クローリーの本を買うためだった。当然置いてあるはずはなく個人輸入してもらった。

                  「ムーン・チャイルド」という本だった。今なら簡単に和訳の本を そこらで買える。
                  それに並行して、その手の本をゴッソリ買い集めた。特にゾクゾクしたのは“悪魔のタロット・カード”だった。面白いように当たった。見つけた時 気味が悪いシロモノだったが的中率が高くて手放せなかった。

                  そんな ある日 とうとう私は どんどん本を買いあさるうち とんでもない本を手にしてしまう。

                  そこには細かく 異次元との交流する仕方が記されていた。
                  どうやって手に入れたのかは思い出せない。もはや お茶ノ水の古本屋さん街はホームグランドだったし、珍しい本が置いてありそうな場所には 目ざとく行っていたので思い出せない。

                  その本には 色々 用意する物が書かれていた。幾つもあった。用意するだけで大変だったのを覚えている。

                  やっと用意できて いざ決行という時の胸の高鳴りは そうとうなものだった。
                  印象的だったのは 書かれている通り 魔法円を床に描く事の作業工程だ。
                  毛足の短いカーペットの部屋だったので細い白い丸いヒモを買ってきて正確に寸法を測り、裏にボンドを付けて、あの独特な魔法円を床に作り上げた。何とも それだけでワクワクする作業で、仕上がりの綺麗さに自画自賛した。

                  その後の 細かい儀式の記憶が飛んでいる。結果が衝撃的すぎて記憶の彼方に行ってしまったのかもしれない。

                  何しろ断片的な記憶として、魔法円を描いて儀式を終えて 魔法円の中心にいて何も起こらなかった・・・

                  と、その時思って 当時自己満足で書いていたショート・ショートの小説を机から取ってきて、魔法円の中心に座ったまま原稿用紙を広げて読んでいた。

                  「なーんだ、何も起こらないじゃないの」と思って 原稿用紙を二つ折りにして 自分の小説を読み始めて、ほんの数分後。

                  いきなり 原稿用紙の枠から手書きで書いたボールペンでクッキリした文字が まるで 砂や砂利のように、斜めに原稿用を持っていた私に向かって、止まっていたはずの場所からザーっと下に こぼれて来たのだ。


                  原稿用紙から文字が離れて 下に流れて動く!!


                  物凄い衝撃だった。こぼれた文字は下に落ち消えて行った。
                  私は 何枚も原稿用紙を斜めにして読んでいたので 次のページ 次のページと一斉に落ちる文字の多さに、ひたすら愕然とし、硬直した。本能的に“危険”を察知した。

                  我に帰って 無我夢中でカーペットからボンドで貼り付けた魔法円をバリバリ引っ張り、グチャグチャにした。
                  汗だくになって 何か とんでもない事をやろうとしていたような感覚に陥って表現できない自分の甘さに打ちのめされた。私は無知で ただの好奇心旺盛な無鉄砲なだけの愚かな人間だと思わされた。

                  生半可な知識や気持ちで踏み入れていい世界ではない事を知った。

                  目に見えない世界の恐さを知る第一歩が この出来ごとだった。

                  それと同時に 確実に 肉眼の世界の他に違う世界が展開されている事を確信した恐い方での体験でもあった。面白半分 興味シンシンで覗く世界ではない。

                  それは音楽が目に見えないように、それでも存在しているように、
                  確実にあることを私に証明してくれた最初の 恐い方での実感だ。

                  今 音楽は あまりにも軽んじられている。
                  作り手の苦労・かかるスタジオ代・ミュージシャンの世代交代が良い形で行われていない部分、オリジナリティの低下が どこからくるかを考える。

                  身を削って作品を作る人の気持ちなど わかってもらえない。
                  形のある物には お金を払うけれど あとは無料だと思っている。
                  コピーするか、その音楽のルーツなど知ろうともせずにいるリスナーが多いのをいい事に真似をして、 それが自分のオリジナルだと断言しちゃう人、本当にビックリすることに遭遇する。

                  音痴なら ピッチで修正してCDで出す。だから今 音痴な歌手はいない。
                  私は 音楽は肉眼で見えない世界の一つだと思っている。
                  それぞれの目的・願望のために音楽をやっている人達がいるのだと思う。
                  でも 悲しい顔している人に、苦しんでいる人と肉眼でわかる人に
                  「だったら 慰めの歌・励ましの歌」
                  では ちと 感性で勝負する作り手としては 肉眼的過ぎやしないだろうか。

                  皆 頑張って生きている。 頑張って生きている人に さらにムチ打つように 応援歌など送って、どうするのだろう。
                  福島の人達をはじめ 被災者、さらには 様々な事情で壮絶な人生を歩んでいる人達は 泣いているわけでも 苦しんでるわけでもない。


                  もはや 魂から血を流している。


                  書きたい事は 沢山あるので 今日の肉眼の世界の話は ここまで。


                  2013-03-18 18:35:59投稿者 : Nachiko
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                    肉眼の世界の話①

                    今日は 肉眼の世界の話を少し書こうと思って これから少しずつ気ままに綴っていこうと考えた。
                    ほんの入口から言えば幼い頃の入院体験から始まる。夜 消灯になる前 個室に入院していた私は病室のカーテンを閉めようと窓に寄った。

                    そこには、自分の姿と病室を夜の暗い黒一色が反射し 映し出していた。
                    しかし・・・・窓に映っている自分の背景に見たこともない物が幾つも映っていて、何度も振り向き 実際の部屋と窓に映った部屋を数え切れないくらい確認した。何度見ても同じだった。

                    それが今思うと 摩訶不思議ワールドへの入口だったように思える。恐怖心もなく、その時 素直に私は自分の肉眼に見えない世界ってあるんだなーなどと思って寝てしまったのだから。

                    それから月日は経ち、またしても入院する機会があった時 友達に借りたピンクフロイドを日曜日で誰も居ない外来の会計の待ち合いのイスで爆音でかけた。何と 音が病院の壁に吸い込まれて行くではないか。あれだけの爆音で鳴らしていたのに誰にも注意されなかったのは今もって不思議としか言いようがない。

                    病室に戻って 今度はヘッドフォンでピンクフロイドをフルヴォリュームで消灯後聴いていた。
                    突然 病室から空を飛びたくなって飛び降りようと奮闘しようしていたらヘッドフォンが頭から落ちた。
                    その時 見えていた音の世界から発せられていた神々しい光の世界に行きたくての衝動だったのが消えて、
                    自分は何をやっているのだと驚いた。

                    音楽は肉眼では見えない。それでも たまらなく魂を揺さぶられる。
                    初期のイエスも、ELPもクリムゾンも もう全て あの時代の物は挙げきれないほどの世界をビジュアルな世界として私には見えた。
                    The whoはサウンドは単純ながら哲学的だったし、Zepに至っては心をガクガクと揺さぶられた。
                    60年代、70年代は そんなバンドが多かった。80年代は華やかだったと思う。

                    私は ひょんな事から覚えた遊びが後に“幽体脱離”という危険なものだと知らされるまでやっていた。
                    就寝後 オデコとオヘソにウ~ンと力を入れて頑張る。とても力を入れる。すると自分は寝ているはずなのに段々起きていく角度で周りの物が見えてくる。そして最後に思いっきり「ウン!」と力むと足元に自分が寝ている。

                    それからは軽くなった身体で、ひょいと建物の壁を抜けて空に上がる。
                    とても心地よい。記憶に とても残っている出来ごとがある。当時 その日 何故か友達の家に私は行った。
                    見たら午前3時半過ぎ。友達の お兄様が こんな時間なのにシールの貼ってあるギターをつま弾きながら何か歌っていた。自分でも何故 ここに来たのか わからなかった。その後 また外に出て 夜空を徘徊してベッドに戻って寝た。

                    その数日後 たまたま その友達と その友達の家に行く用事が出来た。
                    全く ついちょっと前 見たものと同じ光景だった。しかも部屋に入ると 見たシールの貼ってあるギターが置いてあった。
                    たまたま お兄様が2階から降りて来たので(お兄様も見た人と同じだった)、つい私が見た日付を言って午前3時半頃ギターを弾いていたりして・・・なんて、茶化してみた。まさかのピンポンで その日に限って そんな時間にギターを弾いていて両親に叱られたと笑っていた。私は内心 今まで見て来た事が ウソでなかった事を その後 一つ一つ検証するようになっていく。
                    それが危険な行為だと教えられるまで。


                    私にとって肉眼で見えない世界の方が限りなく大きく、そこにある素晴らしいものを どうやって人に伝えるかが課題になっていく。愛も悲しみも苦しみも 言葉に出したら 単に ただの文字で薄っぺらくなってしまう事が多い。

                    それらを きちんと表現できる偉大な表現者達は 肉眼で見えない世界に「悲しい・侘びしい・寂しい」とかいう感情の塊が道端に落ちていることや この世を離れた世界との交信をして そこから自分の表現力で それらを文字にしていったからこそ、その一文字一文字、行間に重みと説得力があるのではないだろうか。

                    人間は、死=生 という欲望のバランスで成り立っている。それは非常にデリケートなバランスらしい。
                    偉大な表現者達が最後 そのバランスを崩し 自らの命を断つという結果に終わるのは、そちらに引っ張られてしまったからではないかと私は解釈する。

                    肉眼の世界だけでなく 見えない世界にこそ真実が隠されている場合も多い。
                    だからこそ 絶望せず まだまだ世界は大きいのだと希望を持てるのではないだろうか。
                    キレイ事は書く気はないので これは まだまだ序章である。
                    個人的なブログなので気ままに のんびり続けて書いて行こう。私は 昔 風だったのだから。

                    2013-03-14 17:18:46投稿者 : Nachiko
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                      あの情景

                      PM2.5と花粉と黄砂で東京の景色が 一変に変わった時。
                      私は ある店で珈琲を飲んで大きな窓から外の異常な風に吹き荒れる様子を見ていた。
                      それは まるで以前書いた私の2thアルバムに入っている“無彩色の情景”だった。

                      無彩色の情景

                      厚いコンクリートに四方を囲まれて
                      2重の防音窓に守られて
                      敷かれたレールを素直に歩けば
                      それで良い子になる

                      生まれた時からママがいて
                      大きくなってもパパがいて
                      優越感に浸って生きるもんんだと教えられた


                      学校では支配できない人種は
                      殺すものだと教え込んでる


                      ある朝起きたら 全ての色が無くなり

                      点と線に囲まれていた
                      夢の続きかと思って
                      寝直したけど現実だ

                      無彩色の空に ベージュの太陽
                      あせた輝き 昔のフィルム
                      色は何処に消えたのか
                      それとも 最初から無かったのか

                      信号と髪の毛の色しか
                      誰も覚えていない
                      学者も わからない

                      好きな色も 嫌いな色も
                      何も わからない 色って何だろ


                      こんな歌を歌っていた。「色」は個性でもあり、記憶、思い出、概念、当たり前だと思っている事全てを思って書いていた。

                      今思うと 必死に世の中に私なりに小さい存在ながら警告を鳴らしていたモノばかり。

                      色は 今や流行という隠れ蓑で個性は集団の中で消され、逆に目立ちたくないから流行を追う反面 内心
                      各々が個性を求めている。

                      そして現実に こうやって空はセピア色に染まり ふと気付くと小さなモノの色など気がつかなくなっている。

                      輝かしい科学の進歩は むしろ活かす方に使われている半面で、殺す方にも役立ってしまいプラスマイナスではゼロに、なってはいないだろうか。

                      時としてシュールだとか難解だとか言われていた私はシンプルな音、プログレッシヴな音、生ピアノなど何でも好む。

                      その詩の世界に合っていれば良い。

                      現実は 何よりも究極な非日常的要素を孕んでやってくる。
                      私は それを いつも考える。

                      2013-03-12 16:22:59投稿者 : Nachiko
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                        3・11

                        2011年3月11日・・・・・
                        この日 私は肌で改めて 多くの犠牲と犠牲者の上に成り立つ日本、日本の実態の一部、海外の情勢を突きつけられた。

                        空っぽのスーパーマーケットで呆然と立ち尽くし起きている現実を受け入れるのに時間がかかった。

                        人間が殺し合いをしている事にショックを受けた。まさか、自国で。

                        過去の教訓も歴史認識も無し。素晴らしい文化が衰退していくのは当然だと認識させられた。

                        未だに高汚染地域で戦っている方達、犠牲者の方達、全てを失った方達、放置され悲惨な動物達を決して忘れてはいけない。

                        それなのに、TVでは市場調査のアンケートでは65%以上の人達が過去の事として気にしていないと報道していた。

                        大自然に挑戦し傲慢な人間は、大自然に思い知らされる。でも一生懸命生きている方達や お年寄り 子供達には惨過ぎる。

                        どこまで知らんぷりして生きていける人達が増えていくのだろう。人工地震だの様々な説が飛び交う中、

                        3・11は 人類の傲慢を知らしめた日だったと思う。 思い出しても心が痛くて たまらない。





                        2013-03-11 17:05:44投稿者 : Nachiko
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                          真実が見えたら・・

                          明けまして おめでとうございます。寒いですね。

                          またしても色々な事に頭を突っ込み、人様に とても信じてもらえないような人生を送っている私ですが、
                          昨年は 改めて 感受性以外で もっと切に露骨に考えさせられる事が幾つもありました。

                          私の住まいの近くにもダンボール・ハウスの住人はいらっしゃいます。
                          親近感を持つので、生活ぶりを よく拝見させて頂いています。
                          それはそれは効率よく整理整頓されており、六本木ヒルズをバックに、青天井に椅子を並べ
                          拾ってきたアルミホイルで料理をしている姿など見事なものです。
                          客観的には うちの方は そんな感じなのですが、昨年は本格的に そういう ある種の地区に
                          奉仕に通うので出かけたわけです。女性は危ないから個人行動は慎むようにという地域でした。

                          そこで知ったことは無料で奉仕活動をしている中で、一番求められているのが何と精神科医だったという事実
                          でした。次に意外にも糖尿病の方が多かったこと。
                          彼等は たった一杯の熱いお茶をもらうために早くから行列して待っているのです。
                          雨風に打たれることなど何とも思っていないのです。
                          そして、たった一錠の風邪薬を握り締め、お守り代わりに離さず、それさえあれば助かると信じて
                          召されて行く方が少なくないのです。

                          よく“ダンボール・ハウス関係”の書籍は出ています。ホームレスの話も語られています。
                          そして“人権問題”も もっともらしく語られています。
                          では書いている著者達は彼等の何を どれくらい知って書いているのでしょう?

                          まさに、「信じるものは 救われる」ではないですが、たった一錠の風邪薬で命が助かると信じていることが
                          彼の救いだったのかもしれません。

                          華やかに音楽がTVやCDから流れる一方で、自殺者は増える一方です。
                          外国では何かが起こる度にチャリティーが頻繁に行われ、正当に役に立つように働きかける
                          ミュージシャンが多いのは ご存知の通りです。

                          何も うつ病でなくても、幾ら生きたくても 「死」を選ぶしかない処まで追い詰められてしまう人達が
                          実存します。それは、“真実が見えてしまった人達”や“真実に遭遇した人達”であったりします。
                          身を守るために私達は知らない方が良い事もあるのだと思わされた一年でした。

                          これから ちっぽけな自分に何が出来るのか わかりません。
                          痛い目に遭わされ知った事実を元に、年の初めに何かの形で発信できる形を模索する自分を
                          ここに記しておきたくて書きました。

                          幸せも、家族も 全て自分で作るものです。
                          裏切られた人、悲しみの どん底の人、たった一人の人。
                          私のファミリーとして、第二の人生を考えてみて下さい。
                          ミュージシャンが 何を言うかと思われるかもしれませんが、感性だけで生きてきた人間です。
                          沢山の涙の中から ダイアを集めて 今も生きています。


                          2011-01-03 17:13:49投稿者 : Nachiko
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                          桜虚無

                          外は桜が満開。
                          時折 風に吹かれて花びらが舞う。

                          私は生まれて一度も花見をしたことがない。
                          小学生の頃から、レジャー・シートというものに縁がない。

                          晴れている日の桜は、とりわけ美しいのだろう。
                          その美しさも一緒に行く人によって違って見えるのだろう。
                          私の住むエリアには、暫く歩かないと桜の樹がない。
                          申し訳程度に、こじゃれたレストランの前に植えてある。
                          その前を、愛犬を連れて二人で通る。

                          街は いつも喧騒に包まれ、何事もなかったかのように、新しい高層マンションが建つ。
                          透明な壁の向こうに、公園ではホームレスが、きちんと部屋作りをしている。
                          そこにも どこからともなく、桜のはなびらが チラチラと舞い込む。
                          上品に着飾った人達より、きっと ホームレスの人達の方が効率よく荷物を片付け、
                          自然と共存しているのだろう。私の好きな光景は、ホームレスの人達の知恵により、
                          無限の天井下で、オープン・カフェを心地よ良さそうにしている季節だ。

                          窮屈な枠に囚われている肉体という括りが、魂の膨らみを抑えている気がする。
                          私達は、知らず知らずのうちに、大切な感じる心を失っていることに気づかない。
                          “平凡”という、崇高な目標は、なかなか手に入らず、目先で手に入った錯覚に陥る。

                          私が幼い頃、まだ浜松町駅から麻布までくるのに、都電が走っていた。4番に乗っていた。
                          渋谷に出るには31番に乗った。それが、今や、南北線と大江戸線が通る都会になった。
                          誰が、この陸の孤島に2本も地下鉄が乗り入れると想像しただろう。
                          一の橋から新宿まで12分で行けるのだ。
                          かつて、私が新宿駅西口から来ると、約1時間半近くかかった。
                          何と便利になったことかと驚く。その分、人は その便利になった時間を何に当てている
                          かと思うと、携帯やゲームに当てている人が目につく。

                          車で移動することが多いので、その光景を見ると、面白くもあり、時の流れを感じる。
                          せっかく桜が咲いているのに、心の中では 咲いていないように見えるのだ。
                          車のフロントガラスについた花びらを、ワイパーを立てながら、一枚一枚 指でつまんで
                          はがす風流な心は 何処へ行ったのだろう。

                          確実に 私達の感性は鈍くなっている。
                          そして、守られるはずの私達の権利も 知らぬ間に 奪われている。
                          唐突に書いてしまったが、そんな話を 日々の生活に交えて、ブログに綴りたいと思う。

                          人生を ただ無意味に送ったのではなく、「感じること」「大切なものを守ること」
                          「ボロボロでも 立ち上がれること」「人は愛で生かされていること」を拙いブログで
                          書きながら、次の自分の発信方法を準備していきたい。

                          2010-04-06 18:55:03投稿者 : Nachiko
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                          さらに透明な言を

                          2010年 1月15日 前田 仁さんが召された。

                          呼ばなくていいのに、神様は 仁さんを天に呼んでしまった。

                          ご存知の方も多いと思うが、日本にニューミュージックというジャンルを定着させたディレクターである。


                          私は ニューミュージックとは 程遠いところで音楽をやっていたはずなのに、何故かEpic Sonyと専属契約をしてアルバムを出す時、仁さんがディレクターに付いた。


                          人生は不思議なもの。私は サザンオールスターズのいるアミューズという事務所に所属するかもしれなかったし、当時 ツイストを担当していた大輪さんがディレクターになって、キャノンから出すかもしれなかったし。

                          多分 旧テレビ朝日の録音スタジオの廊下の椅子で仕事中の私を 何時間も Epic Sonyの丸山さんが待っていてくれた時から、その先が決まっていたのかもしれない。


                          喉に悪いからと、煙草の煙や珈琲・紅茶さえ、避けてきたストイックな私に 初めて会った仁さんは平然と煙草を吸いながら、自分は九州男児だと笑顔で言ったっけ。


                          その煙草が 仁さんの命を縮めるなんて・・・皮肉だね。禁煙したって 風の便りで聞いていたのに。アルバムの中に入っている『バースディー・ソング』は仁さんの誕生日にと書いた曲だった。ちょうど仁さんの人生の大きな出来事に 遭遇した年代だと思う。人生をガラっと変えた仁さんは、可愛いお子様達や愛猫達の写真を必ず年賀状にして送ってくれた。


                          私は いつも空の彼方にいて地上にいなかった。

                          時に風をやり泥まみれになり、嵐に打たれ、星空に吸い込まれる幻想を、闇夜に描いていた。


                          仁さんとの思い出は、お通夜に行って帰ってから 私に考えさせるものがあった。

                          まずは、Nachikoとしてのブログを残しておこう、ということだった。

                          同じ名前の人は何人もいると思う。

                          キッカケは 何十年も前の私の作品かもしれない。ここに たどり着くキッカケなんてわからない。


                          でも、ここにいるNachikoは 唯一 ただ一人であり、手段は音楽かブログかの違いだけ。


                          ゆくゆく 沈黙していたことを ほんの少し書いてみよう。


                          間に合ううちに。生あるうちに。そして 手段は 違えど、また 私の世界を表現する方法を模索したいと考え出している。仁さん ありがとう。また 会おうね。


                          2010-01-22 01:33:45投稿者 : Nachiko
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