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Bass   :和佐田達彦

G      :田川ヒロアキ

G   :竹内亨規

Key    :河野啓三

Key    :河本慎一

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和太鼓 :響道宴


Mix :岡野高史

All Music&lyrics:舘岡奈智子

All Produce&arr.:そうる透

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心を楽にするには…2⃣

よく「隣りの芝生は青く見える」
という言葉がある。
これは正しく私が述べてきた
「比較の思考」である。

「自分の家の芝生」と
「隣りの家の芝生」を比較して
いるのがわかるだろうか。

この思考は あらゆる処に見受けられる。
自分の置かれている環境、持ち物、
交友関係、仕事など多岐にわたって
自分を追い込み窒息させる思考への
第一歩なのだ。

「私の芝生は私の芝生」
「あなたの芝生はあなたの芝生」
と自律して受け取れたら楽になる。
「比較の思考」は自分を負に転化する
ことが多い。

あくまで「私は私」「あなたはあなた」
なのだ。
しかし ここで受け取り間違いをする場合も
ある事を忘れてはならない。

「私は私」だからと、「聴く耳」
「受け入れる眼」「個の尊重」を
欠落させると とんでもない事になる。
個人差はあるものの、自分より
年下としか付き合えない・年上としか
付き合えない又はその逆もある。

「私は私」でありながら、聴く耳を
持っていれば我の塊にならないので
風通しがよくなる。

受け入れる眼を持っていれば、
不平不満を自分の中に探さなくなる。

個を尊重すれば、相手が誰であろうと
優越なく接することが出来て
そこから多くの学びを得られる。

比較の思考と上昇志向は大きく違う。
比較した結果、さらにモチベーションが
上がって上昇思考が「上昇志向」に
変わる場合もあるが、それには幾つかの
過程を経なければならない。

比較から生まれて上昇思考を生じる時、
必ずと言って経験する通過点がある。
現状への不平不満だ。

まずは その自分をありのまま受け入れ、
そして感謝することを忘れてしまい
いきなり状況を変えようとして
上昇思考になると、せっかく
さらに自分を進歩させようと思う気持ちが
生じる前に大きな挫折や嫉妬などを
経験して…ということになる。

もう ここで私の書いている
「心を楽にするには…」から
はずれている。


私は長いことEQを大切に考えてきた。
EQとはご存知の人も多いが
自分の中にある情動や感情を自分で分かる
ということ、つまり「自己認識力」で、
EQの最も基本的な能力のことだ。

つまり自分の現状を自覚することから
全てが始まると言っても過言ではない。
自己認識力ができなければ、情動に
流され,対人的な知性も発揮も
できなくなる。

自分が何をどう感じているのかを
冷静に客観的に把握できる人は
EQの高い人と言える。

そもそもEQ理論は現在エール大学
エールカレッジ学長を務める
ピーター・サロベイ博士と
ニューハンプシャー大学教授の
ジョン・メイヤー博士によって
提唱された。

世界的にベストセラーになり、
以前書店にズラリと並んでいた
『EQこころの知能指数』
(ダニエル・ゴールマン著
邦訳は講談社)を思い浮かべる人が
多いのではないかと思う。

IQ重視の日本社会は偏差値教育の
歪みで、勉強は出来るが大切な物が
何か欠損していたり、突如自殺して
しまうという落とし穴があった。

それに対してEQ重視は言葉を
並べれば、明るい・喜び・楽しい
意欲的な・安らぎなど積極的な感情
が前向きな思考に繋がり、
前向きな行動を生み、結果に結び
つけることができるというものだ。

確かにIQやスキルなど必要だが、
何をするにも まずは物事に対する
高いモチベーションや、
相手の気持ちを理解し、行動できる
能力は大切だと思う。

こうした人間的魅力を支えているのが
EQであると提唱している。
心が楽でない時の自分は
どんな感情でいるだろう。

これもEQのどの個別識別能力を
発揮していないかがよくわかる。

・「自分は相手が今、どんな気持ちかを
識別しているだろうか」

・「相手が、自分をどう見ているかを
感じ取っているだろうか」

・目的のために自分の感情を適切に利用
しているだろうか」

・相手の立場になって考え相手に共感して
いるだろうか」

・相手がどう感じるかを先読みし先手を取る
言動ができているだろうか」

・「自分の感情に振り回されることは
ないだろうか」

私達は感情の動物なので感情そのものの
生成を止めることはできない。
しかし、それらの感情を目的達成の
ために利用することはできる。

この場合、「心を楽にする」という
のが目的なので あえて触れている。

それを意識的に行なう能力がEQで、
そのための個別能力がEQを構成する
四つの能力とされている。
このEQは後天的に高めることができる
能力なので私は とても可能性のある
話だと思い、納得した。

EQは「感情の識別」「感情の利用」
「感情の理解」「感情の調節」
という四つの個別能力を循環的に発揮
することで機能している。

適切にEQが機能するためには、
EQを構成する四つの能力がバランス
良く発揮されることが重要になる。

EQI(EQ行動特性検査)
では自分を冷静に見ようとする程度を
「私的自己意識」と「社会的自己意識」
「抑うつ性」「特定不安」で自己認識力
を測定している。

自己認識力ができると、その感情を適切な
状態に調節しておく能力が形成される。

具体的に言えば、怒りや不安、恐れなど、
否定的な情動を自分で鎮め、調節すること。
つまりストレスを感じた時、腹立ち紛れに
仕事を投げ出してしまうような衝動的な
行動を調整する必要があるとはいうまでもない。

情動の調整ができない人は、不快な気分と
戦わなければならない。他方、情動を
うまく調整できる人は、逆境や混乱
からも早く立ち直ることができる。

ただし、調整とは単に否定的情動を
やみくもに抑え込むことではない。
適切に処理することをいっている。

EQIでは「自己コントロール」「ストレス対処」
「精神安定性」の三つの要素で、
「ストレス共生」を測定する。
情動を自己認識し、これを適切に調整しても
それだけでは対人的な能力を発揮することは
できない。肯定的な情動状態を
自分の中に作り出し、それを維持
し続ける必要がある。

車にたとえれば「自己認識力」や
「ストレス共生」はエンジンの部分だが
車はエンジンだけでは走らないので、
ガソリンにあたるのが「気力創出力」という
わけだと書かれている。

つまり「気力創出力」とは、自分自身を
燃え上がらせるような精神状態をいう。
この精神状態の中には、自信や自尊心、
やる気などが含まれる。

これらの特性を、EQIでは
「セルフ・エフィカシー」
「達成動機」「気力充実度」
「楽観性」の四つの素養で測定する。

ただし「やるぞ」という達成への強い
動機ばかりでは息切れしてしまう。
併せて「何とかなる」という
楽観性とのバランスも重要になる。

EQ理論による「感情の利用」
について書くと、明確かつ具体的目標を
持つこと、もう一つは物事に対する
見方を少し変えてみること。

この物事に対する見方を変えてみると
いうことは難しいかもしれないけれど、
私が よく言う「比較思考」をうまく
理解していれば割りと変えやすいと
思う。

凝り固まった概念や思い込み、
極端なマイナス思考は「比較思考」
の産物だと信じているからだ。

そして「感情の利用」は、対人関係に
おいては「相手に共感する能力」として
位置づけることが出来る。

「共感」によく似た感情に「同情」が
あるが、この二つは似て非なるもので
あることを忘れてはならない。

「同情」は自己の優位性を確認する
という意識が隠れているからだ。

私達が、その苦境に陥った人に対して
何らかの行動を取るのは、
その人の考えや感情に共感した時だ。

そしてEQの中で最もIQ的要素を
求められる能力が「感情の理解」だ。

この能力は大きく二つの段階に
分けて考えられる。

第一段階は「感情の持つ特性を理解する
こと」であり、第二の段階が
「感情と状況を結びつけること」、
つまり「その感情がどのように
推移していくのかを理解すること」
そしてEQを発揮する最後のステップが
「感情の調整」だ。

これは「感情利用」によって作り出した
自分の自分の感情を、
「感情理解」で導き出した対応行動に
適したように調整・操作する
能力といえる。

EQは「感情識別」からスタートし、
「感情の利用」「感情感情の理解」という
コースをたどり、最後に「感情の調整」
を経ることで、対人コミュニケーション
における「効果的な言動」という
果実を生み出す。

私が何故 こんなにEQにこだわるかと
いうとEQは後天的に伸ばせるものである
ということ、自分を知ることの大切さ、
自分をコントロールする処置法として、
また対人とのコミニュケーションの
スキルの土台になると考えるからだ。

このEQを大切に考えていくと、
自分の抱えるストレスとの
付き合い方が見えてくる。

先に書いたようにストレスを抑え込む
のではなく処理するということだ。
ストレスは自分でも気づかない所で、
実は溜まっている。

自覚症状が出てきた時は、かなり
溜まっていると思った方がよい。

EQのことを書いたのも根底に、
私が唱える「比較思考」を十分
理解して読むと、さらに心が軽くなる
スピードが早くなるだろう。

私はEQは美しい絵画や大自然に触れて、
感受性を豊かにしていく過程でも、
伸びていくと捉えている。

心を楽にするために一時的に
逃避を繰り返していては何も
ならない。

根本を把握する能力を持つことが
必要なのではないかと思う。
放置して置けば、人間は坂道を
下るのが好きで、自然とネガティヴに
なる。

微妙な生と死をヤジロベエの天秤に
乗せて生きているデリケートな私達に、
理論なくして慰めなど通用しない。

その場しのぎの快楽では癒されない。
ストレスを知るための能力は、
自己の感情や精神状態、置かれている
環境、客観的視点を持ってこそ
養えると思う。

そしてストレスを知ってから、
やっと次の段階へと向かうのだ。

2013-12-20 07:39:20投稿者 : Nachiko
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    心を楽にするには…1⃣

    今日はチラリと私の思考について。
    長いこと犬猫と暮らしていると
    気づかされる事が幾つもあると
    書いたことがある。

    その中で私が気づいたというより、
    教えられたと思う彼等の在り方に
    ついて そこから一つ至った私の
    物の捉え方を書こうと思う。

    いつも記しているように我が家の
    犬猫は何らかの事情で保護された子
    が多かった。

    勿論 大きなハンディーキャップを
    抱えている子達もいた。

    人間から見ると「可哀想に」
    と思えるのだが、それは
    大きなお世話で彼等は関係なく
    マイペースで生きている。

    それどころか いつの間にか
    動物家族を形成しお互いを
    思いやって時に結託し、
    喧嘩したり何事もなかった
    ように楽しく遊んでいたりする。

    これは最初 そんなに気を
    止めていなかったが、
    実は大きな秘訣が そこにあるのでは
    ないだろうか?と
    思い始めた。

    たとえば人間に置き換えると、
    人間なら くだらない事で
    スケープゴートを作りあげて
    誰もが何かしらのコンプレックスを
    持たされ、心理学でいうところの
    学術的コンプレックスとは
    ほど遠い個人差の大きい後天的な
    肉視的でもあるコンプレックスを
    植え付けさせられる結果になる。
    これは一体何でなのだろうと思う。

    同一ならスケープゴートの標的に
    ならないが、少しでも個性があったり、
    人と違っていると そこから問題が
    生じる。

    そのクセ 「自分は個性的でありたい」
    などと思い気づけば似たことが
    書いてあるファッション誌の
    影響なのか一山幾らの同じファッションで
    街中溢れてしまい個性どころか、
    個別化するのも難しくなっている。

    私は その現象を非難するのではない。
    非難するとしたら、根底に潜んでいる
    「比較」の思考だ。

    動物の本能で優位に立ちたいのは
    理解できる。

    しかし 私はウチの動物達を見て
    何故仲良く平和なのか、
    自分が人から相談される悩みを
    持ったことがないのかを考察した
    ことがある。

    行き当たるのは「比較の思考」なのだ。
    ウチの犬猫を見ていて常に
    感じるのは、ありのままの自分を
    受け入れていることだ。

    たとえ片目を失っていた子も、
    下顎が極端に小さい奇形であろうと、
    全く関係ない。

    人間の言葉を話せないので
    彼等が何を感じているのかは
    わからないが、何もそんなことは
    周囲に感じさせないほど明るい。
    卑屈になっていない。

    動物と人間の価値観の相違なのかも
    しれないが、少なくても
    彼等は比較をしていないのが
    伝わってくる。

    嫉妬といっても誰がオヤツを
    先に貰っただの、抱っこされただの
    いうことを不満気に訴えるが、
    それはすぐに解決する。

    その場で解決してしまう。
    もし人間が、いつも他人と自分を
    比較し続けていたら決して満足も
    幸せも感じないのではないだろうか?

    もし幸せを感じているなら、その時は
    比較思考が休止している時なのでは
    ないだろうか?

    自慢ではないが私は人を羨ましいと
    思ったことがない。
    口では「あら、羨ましいわねぇ」などと
    言ったりするが軽い言葉であって
    心底羨ましいと思ったことはない。

    他人から相談されると そこに
    必ずと言っていいほど比較思考が
    含まれているといって良い。

    とても残酷な事を書いているようだが、
    私はこの世の中だけが全てだと
    思っていない。

    たまたま今の この次元では この姿で
    この役目で生を受けたけれど、
    違う次元では別の人生を送っているに
    違いないと確信しているからだ。

    私のような多次元を信じる者は、
    ある意味楽な思考回路を持っている
    のかもしれない。

    この世は苦しみと悲しみに満ちている。
    夜があり昼がある。

    雨が降り風が吹き雪も降る。
    壮絶な環境も贅沢の極地の環境もある。

    こんな不公平な世界は、この世だけ
    見たらあり得ないと思う。

    飢餓で苦しむ人、もしくは餓死。
    孤独で死に至る人、大きな病を
    生まれながら持っている人…
    かと思えば健康で風邪一つひかない人。

    両親揃っていて不自由なく温かく
    育つ人、親の愛を知らない人…
    私は ニュースを見ると発狂しそうになる。
    我が身を振り返ってみたりもする。

    どんな事があっても自分を
    否定したり卑下したりしては
    いけない。

    それは、その時点で比較思考のドツボに
    ハマっている証拠だからだ。
    とりあえず与えられた自分自身を
    受け入れる。

    犬猫が普通に行なっている行為だ。
    比較思考を棄ててみる。


    「私」は「私」。「あなた」は「あなた」。
    この姿勢は非常に心を楽にする。


    たまたま私は犬猫達や、どうして人は
    あんなに色々な悩みを抱えるのだろうと
    思ったところから考え出した事だが、
    たったこの「比較思考をやめる」
    だけで大きな変化が生じる。

    まず物欲があっても買う物が
    変わってくる。

    流行に支配されることもなく、
    誰々より良いものを持ちたいなどと
    いう考えがなくなる。
    本当に必要な物は何なのか。
    流行っているから欲しいのではなく、
    自分に似合うから欲しいに変わる。

    自己評価が変わる。
    これは簡単に一言では語り尽くせない
    ほど大きな大きな変化をもたらす。

    格差社会と言われるようになって、
    その格差は開くばかりだ。
    仕事にしても就職難民が増え、
    自殺に至る。

    自分で自分を認めることなど、
    もはやできなくて当たり前の
    時代を私達は泳いでいるのだ。

    何をもって成功といえるのか。
    何をもって偉いといえるのか。
    何をもって価値ある人間といえるのか。

    その辺が うやむやに
    なってはいやしないだろうか。

    終身雇用制度が崩壊してから、皆
    知っている。
    この世の中に安定など一握りだと。

    その安定さえ今や脅かされている。
    私達の身体がメンタルと大きく
    関係しているのは周知の事実である。

    体調を崩して病院に行けば、
    医者は仕事だから その崩した体調
    だけをみて診断し、薬を処方する。

    はたして それで解決するのだろうか?
    ここで大切なのは心のクセを知る
    ことではないだろうか。
    放置しておけば人間はネガティヴな
    事を延々と語れる生き物なのだ。

    おまけに自己否定と自己卑下が
    得意である。
    その反対に大ほら吹きもいる。
    俗にいうビックマウスも
    その部類かと思う人もいるかと
    思うが、これはまた意味合いが
    違う場合が多い。
    公に宣言し自分を追い込む手法も
    あるので、ビッグマウス=大ほら吹き
    とは意を異なる。

    根拠のない自信や、やたらと見栄を
    張るのは自分に自信がない証拠
    もしくは極端な小心者である場合が多い。

    まずは自分にストップをかけるのだ。
    ネガティヴな言葉は生産性がない。
    さらにネガティヴな事を呼び込む。

    自然体が一番良い。
    犬猫がそれを見せてくれている。
    もし各々が自分は自分と思って、

    萎縮せずありのままの自分を
    受け入れたら、そこからすでに
    変化が始まっている。

    よく下を見たらキリがないし、
    上を見てもキリがないと言われている。
    そういう意味ではない。

    自分は世の中にたった一人の
    貴重な存在なのだ。

    自慢ではないが、私などコンビニを
    何件も応募して落とされている。
    最終的には外国人のオーナー店長に
    「アンタなんて雇う所あるんかね」
    と言われたことがある。
    その時は さすがに凹んだ。

    何でも体験したいので色々応募したが、
    私を雇う所って、ほとんどなかった。

    私って雇う価値ないですか?
    それほど酷いですか?

    そうは思っても、ある方面では
    キチンと通用して上品にホテルで
    食事していた自分がいた。
    頭痛していたけれど、私が追従というか
    無理しても紛れ込めた世界もあった。

    人の価値が、いかにいい加減で
    デタラメなのかが良くわかる。
    思い込みは良くない。

    自分を自分で決めつけるのは、
    もっと良くない。

    モンスターペアレンツもいるので
    一概に言えないが、親がそっと
    見守っている場合もある。

    しかし当事者には気づかない。
    本当は楽になる方法は幾らでもあるのだ。

    How to本が山のように出ている。
    やれアロマが良い、何がよいとか
    様々な情報が入ってくる。

    しかし、そこで思考の休止を勧めて
    いるだろうか?

    いくら素晴らしいアロマオイルの香りを
    嗅いでネガティヴな会話を延々としたり、
    自己否定を繰り返したり、
    自己再構築の邪魔になる行為ばかり
    していたら何もならない。

    とにかく手放すことだ。
    くだらない先入観・価値観・評価
    思い込み・そして大切なのは
    比較の思考を棄てることだ。

    まずは、自分ありき。
    そこに立っている自分が居る。
    受け入れる。そこから次の段階に行こう。

    2013-12-19 07:37:52投稿者 : Nachiko
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      動物四方山話1⃣

      今日は雑談を。
      と言っても動物が家族なので
      登場人物は動物になる。

      まぁ、犬猫達と暮らしていると
      色々なことに遭遇する。

      彼等の頭の中身は一体
      どうなっているのだろうと
      思うことがある。

      今回は室内編のPart1。
      これは増えるかと思う。

      犬は耳が非常に良いので
      大きな音に敏感で過剰に
      反応する。

      おかげで助かることも多い
      のだが、これも個人差があって
      平気な子から凄い反応を
      した子がいる。

      うちの場合、先々代にエデと
      いう名のヨークシャーテリアが
      居たことがある。

      女の子で線の細い優しい子
      だった。
      普段から物静かで何をするにも
      控えめで、男の子の方に
      遠慮するかのように
      古風で人間でいえば
      大和撫子みたいな犬だった。

      そのエデはピアノの音が
      苦手らしい?くらだったが、
      それほど嫌悪感を
      示すこともなかった。

      ところが…
      ある日 母がカラオケをやると
      言って私の防音室で
      買って来たカラオケを流して
      歌い出した時の事だ。

      それまで元気だったエデが
      様子がおかしい。
      抱き取ると急に体重が変わった
      ような気がした。
      異変に気が付き、
      急患で夜間だったが連れて行った。

      何と「心臓麻痺」
      慌てての処置。


      運良く助かったが
      紙一重で死ぬ所だったらしい。
      母は自分の歌で犬が
      心臓麻痺で運ばれたのが
      よほどショックだったらしく
      私の知る限り私の部屋で
      カラオケを歌いに
      その時期は来なくなった。

      かと思えば、
      今 私と同居している最中の
      イタリアングレーハウンドの
      メイは別の意味で
      困ったチャン道を貫いている。

      私が大きな音で音楽を
      聴いていても平気なのは
      勿論、それだけではない。

      TVで動物が出てくれば、
      液晶に飛び込もうとする。
      たまったものではない。

      しかも吠えて必ず、動物が
      出ている事を教える。

      それだけで済んでいて
      くれれば良かった。

      昨年あたりから彼の
      本性が出てきた。
      私は作業をしてデモ音源を
      作る。

      それに手を加えてもらったり、
      ある程度商品ぽくなりそうかと
      キチンと様子をみようと
      仮歌を入れると やらかして
      くれることがあるのだ。

      それまで毛布を頭から
      被っておとなしく眠っていた
      はずなのに。

      何度か練習して、いざ録ると
      なった時に…

      最初は何処から聞こえてくるか
      わからなかった。

      変な「キャウーーン」とか
      「ヒューン」とか
      「ウイーーン」とか
      凄い音痴で甲高い裏声が
      大声で入るのだ。

      犯人はメイなのだけれど、
      どういうわけか彼は
      とても得意な顔をして
      やっている。

      傍で動画に撮ってもらった。
      見てみると、
      それまで毛布に もぐって
      いたメイが音楽を聴きながら、
      モゾモゾと出てくる。

      サビの処にくる前に
      毛布から身体を全部出し、
      きちんと姿勢を正して
      お座りしサビにくると
      天井に顔を向けて
      例の声を上げるのだ。

      まさに雄叫びなのだが、
      本人は気持ちよく
      歌っている様子。

      露骨に声色を変えている。
      最初は「うわっ、なんだ!」
      と驚いた。

      何せメイの声まで録音されて
      しまうから。

      まぁ、ちゃんと録る時は
      スタジオのヴォーカル・ブース
      で録るから良いかと思い
      メイの雄叫び いや
      コーラス入りのデモテープを
      使って本チャンに臨む。

      先程も仮歌で
      フェイクを入れていたら、
      慌てて起きてきて、
      大声を上げ出した。
      どうやら自分の仕事だと
      使命感に燃えているらしい。

      次男坊のスムースチワワの
      プッキーは8時間で切れる
      ファンヒーターを
      寒がりなので神様だと
      思っている。

      犬の方法なのか拝んでいるらしい。
      そして室温が下がると、
      ストーブをカリカリやって
      「お願いします。寒いのです。」
      と熱心にお願いの行動を取る。

      プッキーはストーブの
      当番を決め込んでいる。
      室温管理は彼の仕事らしい。

      そして食事の時間が遅れると
      老犬のロングコートチワワの
      ディム(正式な名前はディアムーン)
      が、私に教えに来る。
      水が汚れていても教える。

      その点 プッキーは水が無くなると
      乱暴に下顎が奇形で小さいなんて
      関係なく大きなステンレスの
      器を投げて寄越す。

      メイでさえ、器を前脚でカリカリと
      やるだけなのに。
      性格の差が面白い。

      ここにニャンコが加わるので
      我が家は かなり大変な事になる。
      犬猫が苦手な人は一歩も入れない。
      犬猫だけで語りたいことが
      山ほどある。

      彼等は有能で実に素晴らしい。
      人間は 彼等からもっと学ぶべき
      だと思うのだ。

      2013-12-18 04:54:49投稿者 : Nachiko
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        怪・第四話

        「怪」について色々書いてきた。
        並べて日常的なことまで含めると
        書ききれないので幾つか ここで語って
        きたけれど今日は私の「怪」に対する
        考えを書こうと思う。

        私が体験した中で私と一緒にいて
        同じ体験をしたことのある人もいる
        話を例にだすことにしよう。

        東京ローカルの私は よく同じ道を
        狭いエリアで通る。
        自宅から車で渋谷に向かう途中に
        天現寺という場所がある。

        そこの交差点を左に曲がって
        真っすぐ行くと通称・目黒トンネルと
        呼ばれるトンネルがある。

        このトンネルは途中にトンネル内に
        降りれる階段がある。
        私が家に帰ろうと思い ここを目黒方面
        から天現寺方面に進んだところ、
        ある日から途中にあるトンネルに
        降りる階段の処に長身の男性が
        ベージュのスーツを着ていて、上着だけ
        脱いで片手で肩にかけて立っていた。

        何の変哲もない風景なのでそのまま
        過ぎて行った。

        ところが何回通っても その男性は
        いつも同じ格好でそこに立っているのだ。

        変だと思い話題にしてみた。
        「ねぇ、いつも立っている人居るんだけど」
        何となく薄らと私は、その男性が
        俗にいう非日常的な人物ではないか?
        と思い始めていた。

        普通に考えても 人がずっと立っている様な
        場所ではない。
        それで友達と一緒に その場所を車で通って
        「そこ、そこ!」と指をさした。
        すると一緒に居た友達も同じ男性を見たのだ。

        以来 暫くその男性は そこに立っていた。
        通る度に立っているので、一緒にいる人も
        見るから
        「今日も立っていたわね。」と
        会話の一部になっていた。

        それが1年くらい続いただろうか。
        ある日 通ったら もう立っていなかった。
        一体あの男性は誰だったのだろう?

        何で あそこにいつも立っていたのだろう?
        疑問は少し湧いたが いつも透き通った
        影を見たり何かしら見ることが多かった
        ので、その類いのものかと解釈した。

        それで私の多次元の確信へと繋がって
        いく過程の材料は増えていくばかり
        だった。

        私の頭では説明のつかない現象に
        ぶつかると またかと慣れてしまい、
        そこで終わるのだが段々と年を
        重ねると「何故?何なの?」という
        疑問のような物に変わっていった。

        多次元といえば すぐに地獄と天国とか
        色々思い浮かべる人が多いと思う。
        宗教では いとも簡単に説明する。

        用語こそ違っても現在の世界と、
        死後の世界、生まれる前の世界、
        また神のいる世界、天国と地獄の
        間にあると言われている世界…

        宗教的に何の宗教でもいいから
        視点を移せば安易に説明がつく
        のかもしれない。

        私が思ったのは そうではなかった。
        安易なのが好きでなかったわけでは
        ない。宗教には必ずといっていいほど
        共通点がある。

        それが一神教でも多神教でも、
        突き詰めていけば「良心」とか
        人智を超えた存在を中心に置き、
        悪いことをすれば死後良いことは
        ないという教えだ。

        私は「悪い事=正義」だとすれば
        この世に正義など無いと思っている。
        正義など その時代や状況で変わって
        しまう。

        普遍の正義を信じたい。

        その辺の私の持論は以前出した
        2ndアルバムに入っている
        『無彩色の情景』で歌った。

        これは持論だから着地ライヴと
        銘打った帰還ライヴでも歌った。
        私が宗教を信じないとか、信じる
        とかの問題ではない。

        自分なりの信仰は持っているし、
        決して無信仰だなんて言わない。
        ただ人間は幾ら正しいと思われる
        教えの宗教を持っていても、
        時代に翻弄され正義を歪めされられる。

        だから宗教的視点から捉えたくなかった。
        すぐに浮かんだのは多次元の話だった。
        パラレルワールドでもいい。

        これは私にとって素敵な捉え方だった。
        登場人物は同じでも全く違う人生を
        並行して生きているわけだから、
        今不幸のどん底でも最高に幸せに
        なっている自分がいるかもしれない、
        とか早くに亡くなったけれど
        別の次元では元気に生き生きと
        生活しているかもしれないなんて
        想像しただけでワクワクする。

        姿を見せなくなった弟の栄も、
        パラレルワールドなら私と
        図書館に行ったりして姉弟の
        楽しい暮らしをしているかも
        しれないのだ。

        パラレルワールドといえば
        シュレーディンガーの猫を
        思い出して気分が悪いのだが、
        否定できないわけだから、
        この捉え方を良しとしようと
        思った。

        ちなみに このシュレーディンガー
        とは大切な命・猫を
        とんでもないことに使った
        動物虐待者と当時は思っていた。

        でも批判や諸説が出てきたので
        もしかしたら、この猫は
        パラレルワールドを思えば
        物凄く有名な猫なのかとも思う。

        異次元で この猫とシュレーディンガー
        は仲良くしていたかもしれないし、
        猫に何かされて大変な目に遭っている
        かもしれないと思うことにしたから。
        このオジサンは、何をしたかというと
        蓋のある箱を用意して、この中に猫を
        一匹入れたのだ。

        箱の中には猫の他に、放射性物質の
        ラジウムを一定量と、ガイガーカウンター
        を一台、青酸ガスの発生装置を一台入れて
        置いた。もし箱の中にあるラジウムが
        アルファ粒子を出すと、これを
        ガイガーカウンターが感知して、その先に
        ついた青酸ガスの発生装置が作動し、
        青酸ガスを吸った猫は死ぬ。

        しかし、ラジウムからアルファ粒子が
        出なければ、青酸ガスの発生装置は
        作動せず、猫は生き残る。

        一定時間経過後、果たして猫は
        生きているか死んでいるか。
        (ここで その猫の役をお前がヤレ
        と思った私がいた)

        この系において、猫の生死はアルファ粒子
        が出たかどうかのみにより決定する。
        そしてアルファ粒子は原子核のアルファ崩壊
        にともなって放出される。

        この時、例えば箱に入れたラジウムが
        1時間以内にアルファ崩壊して
        アルファ粒子が放出される確率は
        50%とする。
        この箱の蓋を閉めてから1時間後に
        蓋を開けて観測したとき、
        猫が生きている確率は50%、
        死んでいる確率も50%。
        したがって、この猫は生きている状態と
        死んでいる状態が1:1で重なりあって
        いると解釈しなければならない。

        普通 我々は経験上、猫が生きている状態
        と猫が死んでいる状態という二つの状態を
        認識することができるが、このような
        重なり合った状態を認識することはない。

        これがシュレーディンガーの猫と
        言われる、気分の悪い実験の概要だ。

        この思考実験は批判されたけれど、
        量子力学が引き起こす奇妙な現象を
        説明する際の例示に用いられるように
        なる。

        どうやら難しくて私は よく把握できなくて
        よくよく読んでいったら、この
        「重なりあった状態」とやらが、大きい
        点らしい。

        きちんと観測機器を使って粒子を観測し、
        確率解釈と結びついて結果的には
        粒子のようなミクロの系の重ね合わせが、
        猫のような(どーして猫を使ったか頭にくる)
        マクロの系の重ね合わせを導きうることを
        指摘したそうだ。

        現在では猫ではなく、巨視的に量子力学的
        現象が観測されたと報告されたことがある、
        と書いてあった。

        本当に色々な解釈をされている。
        中でもエヴェレット解釈というのが
        あって、『エヴェレットの多世界解釈』
        には、この実験に矛盾はないとしている。

        こういうのって対のように量子力学と
        何とか哲学が、またそれぞれの解釈をして
        色々説を出す。

        何とかパラレルワールドの世界を
        実証して欲しいと思うのだが、調べると
        このオジサンの名前が必ず出てくる。

        それを言ったら、テレポートだって
        非日常的な事になる。

        さっき脇に居た人が、ふっと消えて
        逆の方向から歩いてきたり、
        置いてあったものが別の処から出てくる
        のも調べれば難しい事を書いてある本に
        行き着いて研究している人達がいる。

        そんなの皆「怪」とか「超常現象」とか
        表現される。怪談話という文字から、
        暗いとか怖いものが「怪」と称される
        のだろうか。摩訶不思議な出来事は
        「超常現象」と言われているのでは
        ないかと思う。

        いずれにしても現実に体験している事
        なのだから私は自分を信じる。

        人間には探究心があるのだから、とことん
        実証できるならすれば良いと思う。

        ただし生き物の命を奪って欲しくない。
        私は あのベージュのスーツを着た男性は
        他の次元の人だったと思っている。
        たまたま何らかの数式にしたら
        大変な量の事情で私と友達は
        見えたのだと思う。

        私が 力学に親しみを感じるのには
        理由がある。

        さかのぼれば初めてゴッホ展で、
        ゴッホの絵画の前に立った時だった。

        絵画の前に物凄いパワーがあった。
        身体を絵の中に持っていかれるような
        パワーと、たくさんの人達が
        熱い感動なのか、驚きなのか
        何か強いインパクトを受けて出す
        独特の空気が塊になっていた。

        私は ひたすら絵画が放つパワーに
        圧倒されて脚が動かなかった。
        その時強く思ったのだ。

        たくさんの人のインパクトを感じた
        心は、そこにパワーを残骸として
        残していくと。

        だから、またその作品は そのパワーに
        揺さぶられて益々パワーを増すのだ。

        あのタッチは本当に魂をガクガクと
        揺さぶられ荒れ狂う大海の大波に、
        全身をさらわれるような衝撃だった。

        では、そのパワーを実験で測れるかと
        言ったら、測れないと思う。

        そんなことは、その辺にゴロゴロしている。
        今 私の日常で もし一つでも人が聞いたら、
        非現実的だと思うことが毎日ある。

        毎日なので愚痴っぽくなるが、
        私は眠っていないのに
        目を閉じて座っていると、
        寝ている時もだが何の本だか
        わからない本を何故だか読んでいる。

        残念ながら目を開けると本の
        内容を忘れている。

        最初は携帯を握ってサイトの文章を
        読んでいるのだと思っていた。

        ところが気づくと目を閉じていて、
        携帯は握っていない。
        そばで犬猫が騒いでいるのも
        わかるし、TVをかけている時は
        TVの音もわかる。

        どうやら何の本だか知らないけれど、
        同じ文字で縦書きの大判の本を
        私は どこかで読んでいるらしい。

        その本を読んでいるうちに、
        眠くなって寝てしまうパターン
        なので理屈っぽい本なのかも
        しれない。

        今のところ毎日なので、その私と
        何らかの理由で接点があるのか、
        実際に異次元で本を読んでいるのか
        私には わからない。

        それを人は、何という現象というか
        わからない。

        きっと今 そんな体験をしたことがない
        人でも何かのキッカケで遭遇すると思う。

        大抵 家族や親しい人の生死に関する時に
        不思議な体験をする人が多い。
        自分が臨死体験をした人も同じことを
        言う。

        この世は見えている部分は わずかでしか
        ない。脳だって使いきれない。
        私達が見えているものだけが、全てだと
        思っていたら不公平で卑屈になるしか
        ない場面も多くなるだろう。

        私が今までで一番確信を持っていえるのは
        気持ち悪いオーブ(玉揺)を見ても、
        その集合体を見ても、
        なるほどと思うくらい自然にしていれば
        いいのではないかと思う。

        こういう物は何かと悪徳商法にしやすい。
        ちょっと不思議な思いをしたり、
        怖い思いをすると 必ず 金銭を要求して
        お祓いだの何だのを商売にしている
        人が出てくる。

        もしかしたら本物かもしれないが、
        本物は逆に金銭は要求しないと聞く。
        それは自分の役目を知っているからだ。

        私は そのうち何の本なのか、
        どんな内容なのか わかる日が
        くるかもしれないと思っている。

        そしたらブログに書こうと思う。
        「怪」は妖怪にも使うから、
        よけいに印象が暗いのかもしれない。

        妖精や妖怪を信じるも信じないも
        あなた次第だ。
        でも もし居ないなら何故、
        そんな言葉や想像画としても
        存在しているのだろう。

        ちょっと考えれば
        わかることだと思う。

        2013-12-17 08:31:13投稿者 : Nachiko
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          怪・第三話

          今日も「怪」について書こうと思う。
          その前に このブログを読んで、
          まるでTVの世にも不思議な話に
          出てきそうな話を私の耳に入れて
          下さった方おられるので記述して
          からにしたいと思う。

          その女性Aさんはご主人との間に
          流産など色々あって4人の
          俗にいう水子がいたそうだ。

          女性にとって せっかくの命を
          産むことが出来なかったのは、
          どれほど無念で悲しかったかと
          推察する

          ましてや4人ともなれば、
          相当な傷を心に受けただろう。
          Aさんは それでも気丈に

          振る舞っていたのかもしれない。
          でも顔を見ることも出来なかった
          我が子4人の水子に、
          心の中で誰にも教えず名前を
          付けていたという。

          私が この世に誕生させてもらえなかった
          弟に栄と名付けたのに似ている。

          そのAさんがやっと出産できた処から
          この話を信じる人がいるか、いないかに
          分かれるような出来事が起こるのだ。

          出産祝いを色々な人にもらって、
          さぞかしホっとして嬉しかったと思う。
          それが ある出来事でAさんを
          物凄く驚かせることに遭遇するのだ。

          Aさんが家にいると知らない女性が
          出産祝いを届けに来たという。

          玄関にご主人が出てみると
          「渡せば 必ずわかります」とだけ
          言って立ち去ったのでAさんも
          ちらっと顔を見たのか全く面識のない
          人だったので、ご主人に誰?と聞かれても
          友達とか適当な事を言って
          贈り物の包みを開けたそうだ。

          そしたら小さな箱には
          何とAさんが以前この世に産み出せず
          悲しみの中で 自分だけ心の奥で
          名付けた4人の子どもの名前が
          小箱に書いてあったそうだ。

          確かに「渡せばわかります」の通り
          だったわけだ。
          中身は いわさきちひろのタオルセット
          だったそうだ。

          いわさきちひろは、子どもの幸せを
          願って作品を描いておられるので
          有名な方だ。

          この話は誰にも言えずにいたらしい。
          これを「怪」と言えるだろうか?
          ありえないような話だが私は
          信じる。

          この話は深層の思いが この三次元で
          現実化して起きた話としてあり得る
          と考察できる。

          元来よく第六感とかいう誰もが
          持っている五感と違うものを所有して
          いると思っている。

          「かん」とはデリケートな日本語では
          「感」とか「勘」とか辞書を引けば
          色々な感じが出てくる。

          これらは目に見えない。
          小さい時 ウチに美術品の
          大判百科事典みたいなものが何巻も
          あった。素晴らしく写真がきれいで、
          そこに絵画や仏像など色々なものが
          古今東西の美術館・博物館からと
          書いてあり納められていた。

          母が高価な本だからと言っていたのが
          子どもだったのでわからず、
          書庫から出し入れするのに
          一冊があまりに重いので、そっちに
          いささかメゲながら床に置いて
          眺めていた。

          そこで私は仏像や絵画の中に、
          もう一つ目らしいものが古い美術作品
          に描かれていることに気づき
          気になりだした。

          もしかしたら人間は、もう一つ目を
          持っているのではないか?

          その目は肉眼で見えない物を
          見る目だから私達が鏡で自分の顔を
          見ても探せないし見つからないのでは
          ないか?

          そんなことを思うようになった。
          その頃 私が乳飲み子で母が抱いていた
          時に交通事故に遭い、母が思わず
          私を落とした?投げた?

          ここは定かな表現ではないが
          地面に私は頭から叩き付けられたらしい。
          乳飲み子の時なので記憶はない。

          ただ…ずっと密かに気にしていた
          そっと神経質にならないと
          わからない凹みが私の額にあって、
          それが何なのか何故凹んでいるのか
          不思議でいた。

          その答えが、そのような経緯の結果で
          出来た交通事故での凹みだと
          何かのキッカケで知った。

          子どもの頃は触ると露骨に凹みが
          わかったので実は気味が悪かった。
          段々消えてきて今では注意深く
          触れないと そこに凹みがあるのが
          わからない。

          しかし場所的には よく第三の眼と
          言われる場所なので私は
          交通事故で、これだけの傷が残って
          いて親にずっと教えてもらえなかった
          事の方が変だと思った。

          まるで そこに眼があるように
          凹み方が妙だから…

          もしかしたら その交通事故で打った
          場所のせいで眼が少し触れるように
          なったのではないか?とか
          色々考えたものだ。


          留守番していて一人コタツに入って
          いて目を閉じてじっとしていると、
          急にザワザワと何人もの人の気配がして
          色々な会話が聴こえた。

          あれ?と思い目を開けると、
          コタツの上に置いてある湯のみ茶碗が
          スーっと動いている。
          積んであったミカンが配置が変わって
          いる。

          これは コタツだけでなく、自分の部屋に
          いても起きる現象だった。
          引き出しに片付けたはずの物が
          違う場所から見つかったり、
          勉強中うとうとしていて身体がフワリと
          浮いて頭が天井に付くので部屋の
          壁を手で押さえたら動きを止める
          事ができて目を覚まし、夢を見たと
          思いながら その壁を押さえた場所を
          見ると白壁だったので、クッキリと
          私の手形の指の部分が残っていた。

          案外手って汚れているものだと思った
          のを覚えている。

          道を歩いていれば時々後ろから声が
          かかる。
          振り向くと誰も居ない。
          ある時は歩いていて突然前に転びそうに
          なり軽い衝撃を受けて、転ばないように
          と身体のバランスを取りながら
          顔を上げると パッと道ばたに
          花が添えられていることがある。

          ああ、ここで誰かが亡くなられたのだ
          と気づくわけだが私にとって
          手品のように勝手に物が動いたり、
          声がかかるのは慣れっこになっていた。

          ピアノを弾いていても誰かが
          ファルセットでハミングして歌っている
          のを聴いたこともあるし、
          もっとも これは後々曲を書く時
          非常に役に立つことになる。

          いよいよもって曲が書けなくなった時、
          決まった声の女性のファルセットの
          ハミングが聴こえることがあったからだ。

          そのファルセットを聴いていると
          表現しがたい気分になり煮詰まりが飛び、
          曲が完成する。

          今でも又あのファルセットを聴きたいと
          思うことがある。
          私の中で どうやら何かを創るとは
          眼にみえない中から引っ張り出す作業、
          もしくは その辺に浮遊している

          光の粒子だったり 言霊の周波の尻尾を
          自分で捕まえて三次元で現実化する
          行為だと思うようになった。

          その辺の事は以前の私のアルバム
          2thにア・スファルトの歌詞で
          触れている。

          この現象は面白いので着地ライブの時、
          あえて歌った。
          ここで これを歌ったのだからと
          未発表の「ミニスター」という曲も
          歌った。これもかなり実話なのだ。
          そんな私が初めて不気味だと感じた事が
          あった。


          10代も半ば過ぎの頃だ。
          私の部屋には廊下があって毎晩ミシミシ
          足音がしていた。

          台所の方を回ってこちらに足音が向かって
          いるのがよくわかった。

          毎日のことなので、その足音が
          私の部屋の前でピタっと止まるのを
          知っていた。

          特別何も起きなかったので私も
          用心することもなく、ただ母に
          「このウチに誰か夜になると歩き回る人
          がいるよ」と訴えていた。

          それが いつものように眠っていると
          身体を揺り動かされて目を覚ました。
          何かと思って見ると、枕元に
          背中を丸めた着物をきた老婆が正座
          していた。にこにこしながら言った。
          正確な日にちと時間を私に告げて、
          お迎えにくるから待っていなさい。
          という内容だった。

          私は何処かへ連れていかれるの?
          と思い そこで初めて不気味な気持ちに
          なったのだ。

          老婆は伝えることだけ言うとスッと
          姿を消した。

          さすがに私は翌朝 母に老婆の話と
          迎えに来るという日付けを教えた。

          普段 あんまり見せない顔を母がしたのを
          覚えている。

          私はカレンダーを見ながら怯えていた。
          知らない世界が怖かったのだ。

          必ず向かえに来ると信じて疑わなかった。
          寝るのが怖くて臆病になった時期だ。

          母が何やら誰かと相談していたのか、
          何をしていたのか行動は知らない。

          いよいよ迎えに来るという日が、
          あとわずかとなった日、帰宅すると
          見た事もない黒い紙に文字が書いてある
          札が廊下や台所、私の部屋と
          ベタベタ貼ってあってビックリした。

          まるで‘耳なし芳一’ではないか。


          かえって その黒い札の方が不気味に
          思えた。それでも これが何かの役に
          立つならと思い、母も何も言わないので
          放置しておいた。

          そして お迎えに来ると言われた日の夜。

          私はその時間に正座して布団の上にいた。
          いつものように足音も聞こえない
          静かな夜だった。

          時計を見て迎えに来るはずの時間が
          過ぎても何も起こらなかった。

          私は緊張が解けて、黒い札に囲まれた
          空間で やっとぐっすり眠ることが
          できた。今思い出しても後味の良い
          思い出ではない。
          翌日 私の部屋の黒い札だけ剥がされ、
          台所や廊下、柱に暫く貼ったままに
          なっていた。

          全く訳のわからない現象だ。
          何のために私を迎えに来ようとしたのか
          又この黒い札は何か効果があったのか。

          考えると疲れるので、その事は
          深く考えるのをやめた。
          わかる人がいたら説明して欲しいと思う。

          まだ色々あるので次回に書いていくが、
          私はこの三次元に住んでいて
          このニュースに何とも言えない気分に
          なったのだ。

          米・英・ノルウェー・スウェーデンの
          研究者らからなる国際研究チームは
          この度、「平坦時空」と「負の歪曲した時空」
          とを関連付けることのできる数理モデルを
          開発したと発表したのだ。

          「宇宙のホログラフィック原理」とかいう
          やつで、理論物理学の分野において近年
          なされた大きな前進とされている。
          この仮説では、宇宙はホログラムの
          一種とみなされていて、『私達の体験
          する三次元宇宙は、二次元における
          情報がまるでホログラムのように
          投影されたものである』という
          可能性が提起されている。

          ゴタゴタ書くと わかりにくいので
          簡単に書いているが要は、まだ仮説の
          領域を出ておらず、
          数理モデルや物理法則も定式化
          されていなかったのが、
          この数理モデルを更に発展させて
          ゆけば、「宇宙のホログラフィック原理」
          を説明することができるようなモデルを
          構築することができるかもしれないとして
          研究が進められているという。

          でも実際進められていた研究が
          こうして「平坦時空」と「負の歪曲した時空」
          とを関連付けることのできる数理モデルを
          開発したと しつこく書いてしまうけれど
          発表されたのだ。

          時空に関する研究もかなり行なわれているし、
          宇宙に関しての研究は、それこそ頭が痛く
          なりそうなくらい研究されている。

          でも私にはピンと来ない。
          私は興味があるのでよくNASAのサイトや
          宇宙情報とか時空・次元を
          スピリチュアルでなく数式や法則で
          キチンと説明してもらいたいと
          思ってしまうのだが、実際すでに判明している
          事実や現象・現実を目撃者が多数いても
          否定する論理や理論を重視して
          大きく発表しているように
          思えてならない。

          この地球三次元で私自身も「怪」に
          満ちている。

          どんな学説を持ってこられようと、
          私は事実はすでに判明していると
          解釈している。

          だから信じてもらえないだろうと
          口に出せない人も多いと思うので
          私が「怪」について口火を切っている
          のだ。

          人間は経験や体験を共有することに
          よって強くなれる。

          そして楽しくもなるし、知識も広がり、
          英智の輪ができる。

          それは愛する音楽が同じということでも
          人は繋がっていける。
          私が書いているのは、人間が行なう
          最短の結託方法である

          「共通の敵を作れば人は すぐに共同体ができる」
          という負の嫌な手法の逆だ。
          この場合はスケープゴートを作るのに
          もっとも良く用いられる手法だが、
          私はプラスの方向に行きたいから、
          この手法の逆を提唱する。

          「怪」について書いている理由など、
          ポツポツ説明しながら更に「怪」の話を
          していこうと思う。

          2013-12-16 06:47:43投稿者 : Nachiko
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            怪・第二話

            今日は先日読んでから頭の中に
            引っ掛かっている本から、
            こんな「怪」について
            書いてみようと思う。

            その本は矢作直樹医師著作の
            『人間は死なない』という題名
            で、横に長い副題で
            「ある臨床医による摂理と霊性
            をめぐる思案」とついている。
            矢作医師の肩書きも長くて、
            東京大学大学院医学系研究科・
            医学部救急医学分野教授
            医学部附属病院救急部・
            集中治療部部長というものである。

            最初矢作医師は特別目的意識もなく、
            ただ漠然と熱心に仕事をこなすという
            スタンスで、学生時代の経験や
            医療に従事してからも
            人の生死に心を揺さぶられることは
            なかったと記している。

            文章はご自分の専門的な救急処置の
            例を細かく挙げて患者さんの、
            その様子や その後の事を綴るところ
            から始まる。

            長いこと臨床を積むうち矢作医師は
            容態が急変して亡くなる人・
            予想を超えて命をつなぐ人を通して
            何かを感じ始めるのだ。

            素直な気持ちとして
            “現役の臨床医である私が
            こんな事を言うと顰蹙をかうかも
            しれませんが、実際の医療の現場では
            わからないことだらけというのが
            本当のところです”
            と書いておられる。

            現代医学の限界を感じた矢作医師は
            代替医療の世界に首を突っ込む。
            そこで実際現場に行き体験して
            “我々臨床医の常識からすると
            文字通り嘘のような話です”と
            書くような実感を持つようになる。

            そこから文章の展開は勢いづく。
            自然科学という思想と銘打って
            掘り下げていくのだ。
            以下少し興味深い抜粋を下に書く。


            “現代の自然科学の手法、すなわち
            現象をきたす要因を分析的・解析的
            に抽出し、それを組み合わせることで
            当該現象を再現するという研究手法は
            ルネ・デカルトやガリレオ・ガリレイ
            によってその有効性が明らかにされました。

            こうした手法は、高次の概念を低次の
            概念で、全体を部分によって説明
            しようとする試みで、還元主義と
            呼ばれています。

            事物事象を構造化して解析する
            この還元主義では、対象とする現象が
            機械のようなものであれば、
            再現性がよいということになります。

            極端な例としては、人間機械論の
            ような説を展開する学者も出てきました。
            したがって、対象が人間であれば
            必然的に精神と体を分けて考える
            ようになります。

            しかし、最先端の自然科学の一つである
            量子力学の発展により、このデカルト
            以来の心身二元論は揺らいでいます。

            二十世紀に入ると、マクロ世界の
            説明に相対性理論、ミクロ世界の
            説明に量子力学が登場し、
            それまでの我々の感性で理解できた
            世界とはかなり趣きが異なる世界が
            提示されます。量子力学の世界では
            電子や光子は波動と粒子が共存した
            状態をとることができ、その
            状態がどう観測されるかについては、
            偶然に支配されるため確率的にしか
            予想できない、そして電子と比較に
            ならない大きなものとの相互作用が
            起きると、電子の波が収縮する
            (幅のない鋭い針状の波に縮み
            粒子としての電子が姿を現す)と
            されています。〜略〜

            他方、東洋では仏教、ヒンドゥー教、
            道教において、万物は一体であり
            すべては互いに関連しあっている
            とされていました。

            オーストラリア出身の素粒子物理学者
            フリッチョフ・カプラは、自身
            のみならずジョン・R・オッペンハイマー
            、ニールズ・ボーア、ヴェルナー・
            ハイゼンベルグといった量子力学の
            泰斗たちが感得した世界観と、東洋の
            仏教、ヒンドゥー教等の世界観との
            間の相似性を指摘し、万物の一体性と
            相互関連性を究極不可分のリアリティ
            であるとしています。〜略〜

            このように、古代ギリシャ哲学や
            東洋思想において直感的に理解されて
            いた万物の合一性という概念は、
            二十世紀の量子力学発展により
            科学的なアプローチがなされる
            ようになってきました。ここまで
            科学と宗教が重なってきたのは、
            驚くべきことです。”


            と臨床から離れて著者はドンドン
            色々と追求していく。

            私的にはウィルバーの人間の体
            、心、霊魂についての探求にあたって
            肉の目(自然科学に代表される外的
            物質世界を認識する経験主義的視点)
            理知の目(哲学、倫理学、心理学と
            いった知と心について考察する
            合理主義的かつ主観的視点)
            黙想の目(霊性という超越的リアリティ
            について考察する神秘主義的視点)と
            いう三つの目が必要であり、
            それらがバランスよく発達することの
            大切さを力説しています。
            と綴ってあるのが嬉しくなった。

            そんな事を調べながら臨床医を
            続けていくうち矢作医師は自分の
            体験を含めて非日常的な事例、
            現代の自然科学では説明できない
            別次元の、いうなら霊性の領域に
            関する事例を紹介しますと記して、
            また自分の行なった処置を専門的に
            詳しく記述し、その時の患者さんの
            様子を詳しく書いていくのだが、
            今度は 回復した後の患者さんに
            聞き取りをして、自分が行なっていた
            処置を受けていた時の患者さんの
            感じていた話を聴くということを
            始めるのだ。

            それは想像も出来ないことばかりで、
            臨死体験をした患者さんの話に
            共通点があることから話は
            「臨死体験」の方向へいく。

            患者さんサイドから どうせ信じてもらえない
            だろうと思って口に出さなかったことを、
            実際に同時刻に心肺停止もしくは
            それに近い状態で、
            処置を行なっているサイドには
            思いもよらぬ経験をして そこに
            横たわり処置を受けていたという
            事実を聞かされて今度は納得する
            のである。

            始まりからすると実に大きな変化だ。
            矢作医師自身も著書で

            “さて、本章では私が知る非日常的
            現象をいくつか紹介してきましたが
            いかがですか。

            確かに、これらの事例は我々の
            一般常識からすると、信じ難い現象
            ばかりです。頭で考えるには、
            あまりにも経験概念とかけ離れていて
            類比推理も難しく、実際に体験しなければ
            とても理解できるようなものでは
            ありません。アメリカの実験心理学の父と
            呼ばれるウィリアム・ジェームスは
            心霊現象について、それを信じたい人
            には信じるに足る材料を与えてくれる
            けれども、先験的に疑いを持つ人
            にまで信じさせる証拠はないという
            限界を持っている、と指摘しています。


            そして摂理と霊性について述べながら
            『人は死なない』と結論づけていく。

            人生最大の目的は
            「我々普通の人間は、日々の心がけとして
            今自分の出来ることをやっていく、
            ささやかな利他行をしていく、という
            あたり前の生き方をすること」
            と述べ、患者さんの言葉を引用し
            「人は自分に与えられた身体を受け入れ、
            その声を聴き、精一杯活かすことで、
            感謝の気持ちを持って生きていかれる、
            これは真理だと思います。」と終わり
            の方に書いてある。

            一冊の実録で こんなに著者が
            大きな体験を連日しながら
            導き出した結論は、かなり説得力の
            ある内容だった。

            私は いつも非日常的な中にいるので、
            こう様々な実例を救急現場という
            リアルな処から 霊性だとか
            摂理だとか宇宙の神秘だとか、
            そんな言葉が出てくるとは
            思わなかった。

            自分は ある意味でこれらの
            非日常的と表現する事例を
            幾つも体験して、このような
            考えに至った矢作医師と違って
            非日常が日常のように思って生きて
            きたので、こんな事で驚くのかなとか
            いちいちビックリしながら読んでいた。
            明らかに非日常的な出来事は
            矢作医師にとって「怪」なのだ。

            私ごとになるが、生命の話が盛んに
            出てくるので書くが
            私が小学4年の時 母が妊娠した。
            ずっと気づかなかったらしい。

            結果的に言えば詳しくは書けないが
            その子は堕胎された。
            手足をバタバタさせた元気な男の子
            だったそうだ。

            水子供養などやるウチではないので
            すぐにいつもの暮らしに戻った。
            ところが暫くすると夢に赤ん坊を
            腕に乗せた母が出てきた。

            赤ん坊は男の子で母の乳房を探っていた。
            母は気づかぬ様子で座っているが、
            傍目には赤ん坊を抱いているように
            見えた。何となく興味を持って、
            赤ん坊に近づくと私の父の
            面影がある。変な夢だなぁと思って
            その時は深く考えなかった。

            しかし それから毎年何回か その
            男の子は私の夢に登場するようになった。
            間違いなく私の弟だと次回から
            わかったので勝手に「栄」と名付けた。
            栄は やっと立ったて歩けるようになり
            話も出来るようになった。

            活発で甘えん坊で可愛かった。
            キチンと話せるようになると栄は
            私を「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と
            呼ぶようになった。

            スクスク育ち私の身長より高くなった。
            痩せっぽちで顔が私とよく似ていて
            本当に姉弟なんだなと思わされた。

            何度も こちらの世界に栄を引っぱり出せ
            ないかと考えた。
            栄は私と同じに、いつも独りだったから。

            そんなある日、栄は茅の吊ってある部屋に
            布団を敷いて着物の寝間着を着て
            横になっていた。

            いつの間にか体の弱い子になっていたのだ。
            私は とても心配していたが どうする事も
            出来ず栄が夢に出てくるのを待つしか
            なかった。それからの栄はいつも
            茅の吊ってある部屋で布団が敷いてある
            部屋にいた。
            私は枕元で話をしたりしていた。
            栄の顔色が悪くなり元気が無くなってきて
            「どうしたの?」と聞くと
            「お姉ちゃん。僕もうすぐ20歳になるよ。」
            そう悲しそうに言った。
            あまりにも淋しそうに言うので印象に
            残っている。

            手前ミソだけれど、栄は今なら
            けっこうイケメンの部類だったと思う。
            この世に自分と似た顔をして同じ髪の色を
            した人物がいるなんて一人っ子の私には
            想像もつかないことだったので
            栄の存在は大きかった。

            しかし…栄は20歳になるよと私に
            告げてから二度と夢に登場しなくなった。

            私は、その時何となく今生きている世界と
            別の世界があって、それは肉眼では
            見えなくても物事が同時進行している
            のではないかと感触を持った。

            祖父が召される時も誰も居ない病室に
            祖父は
            「今日は○○さんが来てくれたよ。」とか
            「昨日は沢山人が来てくれて懐かしい人に
            会って楽しかったよ」と喜んでいた。

            私が肉眼で見えない世界を絶対的に
            信じている理由は幾つもある。
            そこを何と表現したらいいか
            わからないけれど、確実にある。

            私は人が そこからの何らかの
            働きかけや現象に遭った時
            「怪」というのではないかと思っている。
            まだまだ怪の話は周囲に散らばっている。

            2013-12-14 23:56:43投稿者 : Nachiko
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              怪・第一話

              今日は2つの話を。
              先日のことから書くとしよう。

              その日は とても寒い夜だった。
              いつもならキチンとエレピをセット
              して作業するのだが、横着して
              ソファに座り膝に重いのにエレピを
              乗せて脇に五線紙ノートとペン、

              ソファの肘掛けに簡単な
              ヴォイスレコーダーを置いて
              デモを作る前段階の肝心な
              メロ譜を作っていた。

              ワンコ達も協力的だったし、
              とてもスムーズに事は進んでいた。
              落ち着くシチュエーションだったと

              思う。私の右サイドにロングコート
              チワワの子がベッタリくっつき、
              左サイドには末猫がおとなしく
              寝ていた。

              寒いのでイタリアングレーハウンド
              の子は電気毛布に包まり寝ていたし、
              寒がりのスムースコートチワワの子

              は日頃 神のように拝む
              ガスファンヒーターの前で
              気持ち良さそうに寝ていた。

              明け方になり、室温が下がって
              きたので私はストーブを
              エコモードのスイッチを切って
              あげた。

              途端にストーブが 小さな音を
              立てて熱風を吹き出してくれた。
              部屋も暖まり良い感じになった。
              部屋は静まりかえっていた。

              私がエレピを弾いて歌わなければ
              何も音がしなかった。

              作業をしていると突然 ストーブが
              ゴゴンと地鳴りのように音を出した。
              ビクっとしてストーブを見ても
              何も変化は無かった。

              暫くすると またストーブがゴゴンと
              大きくうなった。

              おかしい。この冬に新しく買ったばかり。
              ガスファンヒーターだから何か
              怖い気がする。

              壊れたのだろうか?
              これ以上 大きな音がしたら
              爆発するのではないだろうか?

              明け方 たった一人で大きなエレピを
              膝に乗せて身動きできない自分の
              姿を想像すると、あまり格好の
              良いものではない。

              周囲には飲みかけの豆乳入り珈琲と
              譜面が散乱している。

              こういう時って悪い方に思考が
              行く。

              ストーブが爆発したら私、
              あられもない この姿を
              ご近所か消防の方に見られるわ。

              そう思ったら、メロディを書く
              どころではなくなった。

              ストーブのゴゴンを究明しなくては。
              しかし膝に乗せているエレピのせいで
              簡単に動けないのが恨めしい。

              時間にして そう長くなかったと
              思うのだが次のゴゴンを待つことに
              した瞬間だった。

              私の左サイドで微動だにしなかった
              はずの末猫が、いきなり
              エレピの一番低いキーを
              腕をニョっと伸ばしてボボンと
              叩くのを見てしまった。

              あ? だから同じキーの高さだった
              んだ。

              コレ読んだ人は何とも思わないかも
              しれないけれど、明け方に
              一人で作業している時に
              いきなり大きな低音が鳴り響くのって
              結構怖いのです。

              ……長い前置きでした。
              笑えないけど笑える怪ではなく
              「快」の方でした。


              で、本題です。
              これは第一話なので古い話から
              書きます。

              私が中学生の頃に遡ります。
              いつもの様に布団に寝ていた時の事、
              鈴が どこからともなく
              シャンシャンシャンと鳴る。

              身体が金縛りにあい目覚めているのに
              妙な感覚に陥るのだ。

              説明できない雰囲気に呑まれて、
              一度閉じた目を開けると、
              そこは竹やぶで あたり一面が竹竹竹。

              鼓膜にはシャンシャンシャンという
              鈴の音が段々大きく響いて来て、
              キーンとなるまで響き渡ると
              十二単のお姫様が登場するのだ。

              両端に美しいヒラヒラした紐の
              付いた お扇子を広げて顔の横に
              置いて私の方を向いて微笑むのだ。

              色の白い本で読んだ お姫様みたいな
              感じで 私は その艶やかな衣服が
              竹やぶに異様に映える美の世界に
              惹き込まれる。

              だが、その後 お姫様は その
              お扇子で顔を さっと前を撫ぜる様に
              動かすと 穏やかな お姫様は
              もう そこには居なくて
              見た事もない怖い顔の人に
              変わって私を見ている。

              ここで 私は恐怖のあまり絶叫して
              身体を動かす→金縛りがとけて
              元の布団に居る。

              という日々が何日も続いた。
              オトナになって思えば 
              あの顔は般若の顔を怖くした
              感じに似ている。

              その夢を見続けているうち、
              私に大きな変化が起きた。
              私は何度か死にはぐって

              いるのだけれど、まさか
              自分でも気づいていなかった
              のだがトイレに行っていなかった
              らしい。

              様子がおかしいと お腹を見たら
              カエルのようになっていた。
              鈍感なのは生まれつきなのだろう。

              我慢することと耐える事には
              自信がある。

              親に その怖い お姫様の話だけは
              一生懸命訴えていた。

              毎日 毎日
              「怖い 怖い」と訴えていた。

              留守番の祖母が救急車を呼んで
              即入院になった。

              あと少し遅かったら尿毒症で
              死ぬ所だったらしい。

              入院して治療を受けても、高熱は
              ずっと続き髄液をとられたり、
              当時色々検査をされた記憶がある。

              その時は腰痛は激痛になっていて、
              食事は点滴だけ。
              高熱のせいか病室に来ている家族の
              会話が途切れ途切れにしか
              入ってこない。

              主治医が何やら困っているのだけは
              わかった。

              ウチは宗教が どーのとかいう家では
              なかったのだが私が入院前まで
              見ていた夢の話が話題にされている
              のがわかった。

              当然の事ながら私には何が何だか、
              さっぱりわからない。

              今だに何を どうしたのだか聞いて
              いないので わからない事がある。

              ただ どうしても下がらなかった
              高熱が突然下がったのだ。

              そのタイミングが面白かった。
              たまたま当時存命だった叔母が
              付き添っていて居眠りをしていた
              らしい。

              その時 部屋から真っ黒な
              大蛇が出て行く夢を見ていて
              看護師さんが検温に来て目が覚めた
              というのだ。

              その時の検温で平熱に下がったのを
              知ったのだ。

              部屋から真っ黒な大蛇が出て行ったら
              私の高熱が下がった??

              そう叔母に主張されても訳が
              わからなかった。

              平熱になってから身体の回復は
              早くなった。

              戦前 明治生まれの祖母が
              あまりにも身体が弱くて昔の
              人なのでワラにもすがるつもりで
              勧められたとかで江ノ島の
              弁財天の御霊入れをしてもらい
              長い事大切に祀っていたらしい。

              すっかり健康になった祖母は
              忘れてしまい放置していたとか。

              言われてみると私は よく
              家に ドーンと蛇がいる夢を
              見る事が多かった。

              私の知らない所で何かしたのだと
              思う話をしていた。

              興味がなかったので、聞き返さなかった。
              でも その後 私は あまり こういう事は
              信じないのだけれど頭に「?」がつく
              こととなった。

              江ノ島に行こうと誘われたが、
              その時は行かなかった。

              行きたかった音大にも行かせてもらえず、
              想像もしていなかった道に入って、
              アルバムを出した後 何となく
              また親が江ノ島に行くというので
              付いて行った。

              古ぼけた写真に江ノ島の写真があるので
              1度は行ったことがあるのだろうが、
              私は初めて行く気分だった。

              不思議なもので そこここに夢に出てくる
              光景がそこにあった。
              初めて見る景色ではなかった。

              私はピアノが大好きでピアノ科を
              受けたかった。
              先生も絶対に向いているからと
              親を説得してくれたけれどダメだった。

              ピアノは指を絶えず動かしていなければ
              固まってしまう。
              ピアノ禁止が出た時、全てが
              終わったと思った程だった。

              上へ上へと登り弁財天のお堂に入った。
              初めて見てビックリした。

              音楽の神様とは何となく知っては
              いたが、その姿を見た時 ピアノの
              神様ではないなんて思ってしまった。

              もしかして…何か関係あったのかな?
              ふと 考え込んでしまった。

              私は その後も特別弁財天を祀ることも
              なく、江ノ島へは水族館に行った
              くらいだ。

              御霊入れを頼んで祀っていた祖母も
              召され私は引き継ぎこともなく
              今日に至っている。

              あれ以来 あの夢も見なくなった事も
              ありがたいし、大蛇が夢に全く出て
              来なくなったのが嬉しい。

              そもそも私は目に見えない世界を
              とても信じているので、
              人間が作り出した物ではなく
              古今東西全てが共通する根幹は
              実は見えない世界では姿を変えて
              人間に様々な導きやインスピレーション
              など膨大な意識の泉の一滴を
              与えてくれているのではないかと
              思うのだ。

              よく考えれば弱いはずの人間が
              ここまで進化したのには理由がある
              だろうし、その目に見えない世界が
              無限大で人間の手に負えないもので
              あることだけは確かだと思う。

              何らかの波長の影響で私が音楽の
              世界に あの時 親が どんなに阻止
              しようとしても別の形で入ったのは
              何度考えても笑える。

              怪談話みたいな事だらけの私
              なのだけれど、思えば この
              祖母が私の出生に影響したように
              その後にまで関わっていたのかと
              思うと摩訶不思議な気分になる。

              現実は小説より奇なり…
              とまた書きたくなるのだ。

              2013-12-13 07:28:59投稿者 : Nachiko
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                手塚治虫先生の視点

                これは いちいち作品を挙げて論じて
                いくと何話にも分けて延々と
                書くテーマなので今回は簡単に、
                今朝起こった出来事で手塚先生の
                視点を考える事があったので、
                取り上げてみることにした。

                記憶の中で一番最初に手塚作品と
                出会ったのは『鉄腕アトム』だった
                と思う。TVも見る時間を決められて
                いて満足に見せてもらえない環境
                だったので私には物凄く貴重な
                時間だった。

                私は自分の名前が生まれた時から
                両親の喧嘩の元だと知って、
                自分だけは大切にしてあげようと
                幼心に決めていた。

                そのせいか名前に こだわるというか
                何故その名前なのか その名前の
                必然性は何なのかを考えるクセがあった。

                「アトム ウラン コバルト」と
                凄い名前が並ぶのが鉄腕アトムだ。
                ウランちゃんの可愛い絵にワクワクし、
                アトムの活躍を応援した。

                しかし 何故名前が「アトム」
                なのだろう。ウラン コバルトと
                そんな系統で並べるのだろうと
                小さいので妙な違和感と疑問が
                胸の中にモヤモヤしていた。

                そして『リボンの騎士』で
                私は主人公のサファイア王子に
                すっかりハマる。

                サファイアは自分の誕生石でもあるし、
                一番好きな色が透明感のあるブルー
                なので名前にも満足していた。

                手塚作品は多岐に渡ってドンドン
                発表され読み手が追いつかないほど
                スピード感があった。

                その扱う内容の凄さは“漫画”という
                隠れ蓑を使った一種の
                思想書のようにさえ思えた。
                夢中で片っ端読んでいった。

                それは時に残酷で醜い物を扱い、
                信じられないほどの知恵と知識と
                資料に基づかれていて人智を
                超えたものだったと思っている。

                どんな緊張した場面でも
                「ヒョウタンツギ」の挿絵が入り、
                緊張を和ませる。

                登場人物は見れば どれがアンチの
                役回りなのか主役なのかわかる。
                最初から、それを教えてしまうのだ。

                実は この登場人物は正義でした。
                なんてオチはない。
                これほど真っ向から勝負してくる作家
                は他にいるだろうか。

                読み続けているうち『ブラックジャック』
                が始まった。これは あり得ない話
                なのだけれど手塚先生ご自身が
                医師なのだから相当に 医療界に対して
                お考えがあったのだと思った。

                どんなに難解なオペを成功させても
                ブラックジャックこと間黒男という
                人間は無資格の医師を通すのだ。

                ブラックジャックは愛がなければ、
                存在しない人々からの皮膚や援助
                で人間として合成された産物である。

                そこへ支配層の腫瘍処理のような
                事をやらされ、ピノ子が誕生する。
                何度ピノ子の「あっちょんぶりけ」に
                救われただろう。

                私はピノ子の真似をして頬を両手で
                挟んで「あっちょんぶりけ!」と
                一人でやっていた。

                私の解釈では医師の資格を持って
                しまうと正しい事が出来ないという、
                手塚先生が その時点で感じて
                見抜いていた医療業界の抱える
                闇を憂いておられたのだろうと
                受け止めている。

                その先見の明は見事なまでに
                現代抱える病気や医療教育、
                利権問題に繋がってハッキリと
                その正しさをダイアモンドの
                様に輝かしい指摘となって
                世間に投げかけ続けている。

                その証拠に東洋医学の琵琶法師や
                安楽死専門のドクター・キリコの
                登場で輝きは深みを確固たる
                確信へと導いていくのだ。

                私はブラックジャックが あの
                丘の質素な家の裏の海辺で
                束の間の休憩を取るような
                シーンが好きだった。

                どこまでも孤高なブラックジャック
                は、潮騒とピノ子で癒される。

                思わず書いたのが
                『ブッラクジャックの子守唄』
                という曲だった。

                自分の1thアルバムに入れた。
                私のプログレや叙情的な曲の中で
                浮いているかもしれないと
                思いながらも手塚先生への
                思いは強く、何かしらファンとして
                したかった。手塚先生が存命の時
                だったので、アルバムを送った。

                ある日 手塚先生から直筆で
                ハガキが来た。短い文でお礼が
                書いてあった。お忙しいのに…
                私は舞い上がるほど嬉しかった。

                ブッラクジャックが大金を取るのは
                大金を払える人 言い換えれば、
                コツコツ働いて真面目に生きている
                人からは実は無償で治そうとする。

                この作品は自分の事は自分で護らなければ
                生きて行けないことや、お金というものの
                虚しさ、権威や権力の滑稽さを
                浮き彫りにしている。

                ただカッコ良い名医の無資格医を
                描いた作品でない処が素晴らしい。

                さらに手塚作品は各宗教を扱ったり、
                SF ファンタジー 自然破壊への危惧に
                及ぶ。圧巻なのは今朝私が ふと
                思い出した光のストーリーを描くために
                取り上げている闇のストーリーとも
                いえる作品群だ。

                私が一番に挙げるのは
                『ばるぼら』『奇子』『人間昆虫記』
                あたりから『火の鳥』までなのだが、
                あまりにも名作揃いで、はずせるものが
                無いというのが本心だ。

                バルボラは憎いほど浪漫たっぷりの登場を
                する。ヴェルレーヌの詩を口ずさみながら
                の登場だ。何とも風情のある詩だった。

                自堕落なバルボラの正体が知りたくて
                夢中になった。厚い本だったが、
                気にならなかった。

                ここで私は この時は消化しきれていなかった
                黒魔術の世界を垣間みた気がする。

                その後 この前の方で書いたブログに記
                した本場ものの黒魔術に興味を
                持って丸善の洋書コーナーから
                発禁にされていたアリスター・クローリー
                の本を個人輸入するに至り、
                黒魔術で怖い思いをすることに
                繋がるのだ。

                うまく表現できないが、ここで安易に
                説明するとしたら よくニーチェが
                芸術論とかでいうディオニュソス的
                なもの。たとえば「本能的とか、陰とか
                暗とか 淫猥」の部分を手塚作品には
                幾つもあるということが私には
                衝撃的でありショックでもあるのだ。

                アトムを いかにも平和の戦士のように
                誉め称えているが、ここで私は
                繋がる。

                ウラン コバルトと名付けた事が
                やっと理解できたのだ。


                定かかどうかは 知らないが高度な文明は
                4回滅びており遺跡から かすかな
                放射能の痕跡が認められるという説が
                ある。手塚先生は見えない世界と
                通じていて陰の世界をあえて描くことに
                よって「光」を描き、地球規模で
                訪れる危機を心配し警告を鳴らし
                続けておられたのではないか?

                その視点の先には宗教や人種や
                国境や時空を超えて、過去の
                人類の失敗を繰り返さないようにと
                召される寸前までベッドの中で
                ペンを握っておられたのでは
                ないかと思えて仕方ないのだ。

                私は盛んに「光を」と訴えている。
                しかし反面 醜い世界 陰鬱な病んだ
                世界も描かかないと光を生み出せない。

                影がなければ明るい所がないのと
                同じ論理だ。

                私は3.11以降 よく考える。
                もし手塚先生がご存命だったら
                今を どう思われたかと。

                アトム ウラン コバルトと名付けた先生
                は平和利用を願っていたに違いない。

                皮肉にも今や それらの名前は私達を
                脅かす現実問題となって共存している。

                それと私はマセ・ガキだったので
                好んで読んでいたが手塚作品の深みは
                こういう陰の世界にも とうとうと流れる
                哲学的な要素 狂気の世界 猥褻な部分も
                あって土台骨を支えていることを
                忘れてはいけない。

                今は核より破壊力のある兵器が開発
                されたために、各国が表面上で
                核廃止の方向に動いているとか、
                色々言われているが、私は人類が
                何度も同じことを繰り返してきた
                事実を考古学者が実証している
                のだから、実は すでにエイリアンに
                地球は支配されているなどという
                話が まことしやかにあっても
                真の光が地球を照らし、
                多くの闇を描きながらも光を
                訴えていったクリエイター達の
                魂のパワーを信じて、その憂いを
                受け止めて覚醒した人達が
                増えていくことを願っている。

                2013-12-11 23:08:13投稿者 : Nachiko
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                  私と犬

                  今日は私と犬について書こうと思う。
                  あまりに彼等との付き合いは長いので
                  書ききれない事が多い。

                  猫は こちらの邪魔をしないし
                  何匹いても病気をしない限り、
                  世話が楽だが犬が そうはいかない。
                  猫の魅力とは違ったものがある。

                  たとえて言うなら猫は友達に
                  なれるが、犬は時として駄々っ子の
                  赤ん坊になる。

                  とにかく日々手がかかるのだ。
                  全く別の生き物の様に思える。

                  私が初めて犬と出会ったのは
                  MIXの黒い子犬を親が
                  もらった時だった。

                  両親共に犬猫を結婚前に飼って
                  いたらしく扱いがうまかった。
                  私は、まだ幼くて黒い子犬が
                  あまりにも小さくて すぐに
                  お腹を出すのが不思議で
                  仕方なかった。

                  独特の匂いがして当時は
                  何を食べさせていたのか覚えて
                  いないが 食事をすると お腹が
                  ぽっこり出て 生きている
                  縫いぐるみみたいで、まるで
                  絵本の中から出てきたかのように
                  思えた。私にとって子犬の成長が
                  とても興味深かかった。

                  甘噛みをして乳歯が抜けて、
                  子犬の行動全てが珍しかった。
                  子犬は大きくなっても自分が
                  大きくなったのがわからず、
                  離れた場所に行くと全力疾走して
                  飛びついてきた。
                  私は その勢いで後ろに倒れ
                  後頭部を強く打った記憶がある。

                  そんな犬との出会いをして
                  自分がオトナになってからも
                  やはり犬は家にいた。

                  家に犬がいるのに野良犬を見かけ、
                  大変だと思い気にするようになった。
                  ある日姿が見えなくなった。

                  バクバクする心臓で保健所に
                  探しに行った。
                  そこには いかにも血統書つきの
                  立派な犬が沢山いた。

                  何故 飼った犬を棄てるのか理解
                  できない。

                  いつもの野良犬はゲージの位置から
                  処分間近らしかった。
                  見つかっただけでも奇跡だ。
                  引き取って里親を探した。

                  そこからウチに犬が増え出した。
                  今いるイタリアングレーハウンドは
                  尻尾が曲がっているという理由で
                  商品価値がなくて売れずショップ処理
                  されるのを引き取ってきた子だし、

                  スムースチワワはブリーダーが
                  下あごが極端に小さい奇形のため
                  処理しようとしていた子だし、

                  心臓の悪いロングコートチワワは
                  親が名前のあるチャンピオン犬
                  なのでショードッグにしようと
                  したのに性格がショードッグに
                  向かない神経質で自閉的な
                  俗にいう二束三文の子だった。

                  中でも一番可愛そうなのは、
                  ショップ処理されるはずだった
                  イタリアングレーハウンドの犬は
                  家に連れてきても夜  うなされたり
                  突然夢を見るのか、キャイン
                  キャインと悲鳴をあげて
                  虐待されていたのが よくわかった。

                  どうせ処分するのだからと
                  かなり酷い扱いをされてきたのは
                  どの犬も皆 身体をみればわかった。

                  イタリアングレーハウンドにメイと
                  名付け可愛がった。
                  とても臆病で人の顔色を伺う。

                  ビックリしたのは叩くふりをしても
                  平気なのだ。すぐに殴られ慣れている
                  こともわかった。何でもないことでも
                  怯え、食べ物にがっつき どんな
                  扱いをされてきたのだろうと思った。
                  メイの悲しくなる夜鳴きが治まるまで
                  随分時間がかかった。

                  メイはウチに来てゲージから出せる
                  ようになると私の膝にしか居なかった。

                  絶対に私の膝を譲らない犬が
                  まだいるので私の小さな膝は
                  犬を乗せて置けなくて結局
                  膝に乗せた格好で抱く格好になる。

                  心臓の悪いロングコートチワワの
                  犬はトイレの中まで付いてくる。

                  ベッドの中も作業中でキーボードの
                  前に座っていても膝にいる。
                  パソコンの前にいれば今度は
                  メイも加わり2匹が乗ってくる。

                  ここで何故 スムースチワワが
                  加わらないかというと彼は
                  脚の大手術をして脚力がなくなって
                  自分から積極的に以前ほど乗って
                  来なくなった。

                  これに末猫が加わるので私は
                  モテモテなのだけれど、
                  私は彼等を欠陥品とした人達を
                  不快に思うのだ。

                  顎の奇形でウチが引き取った
                  スムースチワワは ブリーダーが
                  どんな扱いをしていたかが
                  よくわかった。手入れがメチャクチャ
                  酷かった。耳の中は垢で塞がっていた。

                  その後も ずっと耳で獣医の世話に
                  なっている。本当に生き物の命を
                  何だと思っているのだろう。
                  獣医代は かなりかかる。

                  だからって棄てて済む問題ではない。
                  私は きれい事を書いているわけでは
                  ない。犬猫から学ぶことって
                  多いのだ。彼等は無償の愛をくれる。

                  決して裏切らない。
                  とても美しい心を持っている。

                  そして肝心要な事を教えてくれるのだ。
                  人間への警告だと思う。
                  彼等は受け身で生きている。
                  愚痴も不平不満も言えず、餓死する
                  場合もある。

                  気分転換などしない。
                  飼い主の顔さえ見ていれば
                  彼等は幸せなのだ。贅沢など求めない。

                  私の手作りのボロの服でも
                  堂々と来て散歩してくれる。

                  となりに何万もする服を着ている
                  犬がいても自分が一番という顔を
                  してくれる。

                  そう…彼等は決して比較をしないのだ。
                  人間は必ず、誰かと比較したり
                  何かと比較したり、「比較」が
                  好きなのだ。

                  その「比較」が自分を苦しめている事
                  に気づいていない。

                  たとえ下顎が奇形でもコンプレックス
                  など持たない。

                  尻尾が折れていても関係ない。
                  自閉症でも おかまいなしに行動し、
                  動物家族を形成している。

                  一緒の毛布にくるまり、時に喧嘩し
                  フードの奪い合いをしたり、
                  結束してイタズラを見事なまでに
                  連携プレイして驚かせたりする。

                  今は減って猫2匹犬3匹になって
                  しまったが、彼等が老いてくると
                  寂しい。私も以前のように、
                  あそこまでのケアが出来ない。

                  せめて動物を棄てないで!
                  動物で商売しないで!

                  動物実験を不要な事にやらないで!
                  動物を殺して器物破損という
                  法律を改正して!

                  無駄な殺生はヤメて!

                  一度でいいから自分が犬猫の立場に
                  なってみて欲しい。

                  この世の中に いらない命なんて
                  ないのだから。

                  人口を操作しようしている人達だって
                  他の力が働く。

                  私は動物愛護とか、そんな物ではない。
                  ただ動物から多くを学べるって
                  話しているだけ。

                  彼等を祖末にしちゃいけないって。
                  今世界からミツバチがいなくなって
                  いる。これって、どういうことか
                  わかりますか?

                  多量のイルカ達が乗り上げたり、
                  ミズガメが死んだり、異常が
                  起きている。

                  私達は自然界から学ぶことや
                  教えてもらうことが沢山ある。
                  地震だって、以前よくみかけた
                  「おじぎ草」が触っても
                  おじぎしなくなったら
                  地震がくる証拠。

                  今じゃ沖縄しか生えていないと
                  言われている。

                  そんな中 せっかく身近にいる
                  犬猫なのに祖末にしていいの?
                  って思う。彼等は耳も目も優れて
                  いるし、教えてくれることが
                  いっぱいある。人間はおごっている。

                  私からのメッセージは いつも
                  立派な内容ではない。

                  ごくごく ありふれた物ばかり。

                  ギリシャでは地域猫 地域犬という
                  のがいて決して殺処分しない。

                  地域で可愛がっている。
                  写真展に行ったが、伸び伸びして
                  良い顔をして写っていた。

                  無防備に日向ぼっこしていた。

                  犬猫が嫌いな人は仕方ないけれど

                  そうでない人はショップに行かず、
                  必死に里親を探している人を
                  見つけるといいと思う。
                  そこに架け橋が生まれる。

                  人身売買が陰で横行しているのだから
                  動物の売買など無くなりはしないだろう。

                  でも これから犬猫を飼いたい人に
                  彼等が どれだけ可愛いか、
                  里親になる事が微々たることでも
                  殺処分減少に繋がるかを知って欲しいと
                  思う。私と犬は、猫との付き合い
                  みたいにインパクトはなくても、
                  日常の一部で猫も犬も生活の中に
                  入っている存在過ぎて全く同じ
                  なのだと思う。


                  2013-12-10 09:38:28投稿者 : Nachiko
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                    猫と私

                    私は元々犬派で猫が苦手だった。
                    小さい頃 猫に引っ掻かれて、
                    抱っこしようとしても逃げるし
                    可愛いと思えなかった、
                    今思うと猫に偏見があったのだと
                    思う。

                    猫には「化け猫」っとか
                    「祟る」とか、ろくな表現しか
                    頭になかったから。

                    それが いつの頃からか子猫を
                    見た時 その偏見が消えた。
                    小さくて丸くて手の平に乗る。
                    暖かいフワフワした縫いぐるみ
                    のような生き物を見て、
                    たまらなくなった。

                    まだ私の街に野良猫が闊歩していた頃
                    私は目立たない処に何カ所も餌場を
                    作って小さな器にフードを入れて
                    歩くのが習慣になっていた。

                    雨の日も雪の日も、毎日毎日
                    欠かさずフードを置きに街中歩いて
                    猫達のエリアを模索しながら
                    餌場を決めて置いておいた。

                    家の裏に古い中華そば屋さんが
                    あって、そこが猫達の貴重な
                    食事の供給源であるのは
                    猫達の様子で すぐにわかった。

                    野良猫とはいえ私が行くと
                    どこからともなく姿を現し、
                    寄ってきた。数匹来る時もあった。

                    縄張りがあるので遠くまで遠征して
                    フードを置く必要があった。

                    私の街の場合、獣医の話だと
                    外猫だと平均寿命は4歳くらいだと
                    言っていた。それくらい車に轢かれたり
                    病気になったりと、リスクが大きかった
                    のだ。とても野良で生きていくには
                    厳しい環境の街なのだ。

                    それでも たくましく生きている
                    彼等は堂々としていて
                    しなやかで可愛くて魅力的だった。
                    ある時、深夜いつものように
                    フードを置きに行くと猫の姿が
                    全く見えなかった。

                    変だと思いながら人のいない
                    商店街の通りに出ると
                    何と 沢山の猫達が道路いっぱいに
                    座っていた。

                    これが噂にきく“猫の集会”ってやつか
                    と思って興味深く見学した。

                    何をするでもなく全ての猫達が
                    そこに集まり どこにこんなに猫が
                    いたのかと思うほど沢山の猫達が
                    静寂の闇に暗い街灯の下で、
                    ただ座っていた。

                    何とも表現しがたい光景だった。
                    私が居るのに彼等は それを
                    認めてくれるがごとく微動だにせず
                    自分達のペースで そこに座り
                    集会を続けていた。

                    私は立ち疲れて、その場を去った。
                    やけに月明かりが印象的だったのを
                    覚えている。

                    心なしか彼等が私を受け入れてくれて
                    いるのを何となく感じ始めた頃、
                    いつも中華そば屋さんの近くの
                    細い路地から出てくる私が勝手に
                    名前をつけた 少しふてぶてしい
                    感じがするので「ブテッコ」と
                    という猫が お腹が膨らんでいるのに
                    気づいた。

                    赤ちゃんが生まれるのだと思うと、
                    私もブテッコには慎重に接するように
                    なった。猫にも妊娠中の何かがある
                    のではないかと思ったからだ。

                    いつものように中華そば屋さんの
                    前を通るとブテッコが久しぶりに
                    姿を見せた。

                    可愛い子猫を数匹従えて私の前に
                    登場したのだ。

                    それからは何度も子猫を連れては
                    私の前に出て来るようになった。
                    私は子猫用のフードを買って置いて
                    置くようにした。

                    決して器量の良い猫ではなかったけれど
                    ブテッコは義理固く必ず出てきてくれた。

                    他の猫達も、そのエリアの子は
                    姿を見せてくれたし近づいて
                    傍に来てくれた。

                    まるで何か私に話かけたいような
                    素振りだった。

                    暗闇に光る猫の瞳は美しく、
                    神秘的で暖かくて その瞳だけで
                    十分に多弁だった。

                    その彼等が、ある日を境に徐々に
                    姿を消して行った。

                    近所の話では猫エイズのせいでは
                    ないか?とか猫の保健所捕獲か
                    猫は三味線の皮に使うから
                    捕まえられたのではないかとか
                    噂がたった。

                    ブテッコは年を取り、段々と
                    最初と比べると見るかげもないほど
                    老いていった。この地区の平均寿命を
                    考えると長寿だったのだろう。

                    子猫達は独立しブテッコは一人になり、
                    いつの間にか姿を消した。
                    とても悲しかった。

                    野良猫の姿が見えなくなり、私も
                    フードを置くこともなくなった。

                    それから捨て猫の保護に入った。
                    最初に保護した子は生まれて
                    何をされたのか片目を潰され、
                    般若のような顔をしていた。

                    人間にイジメられたらしく
                    激しい敵意を持っていた。

                    弱りきった身体で動くことも
                    出来ず雨の中 うずくまっていた。

                    汚れきっていて鼻管炎で
                    みるからに病気もあり、片目の
                    形相も異様で はたして保護しても
                    扱えるか不安になった。

                    最初獣医に連れて行ったら、
                    獣医も腕を血だらけにされ
                    激しい抵抗にあい、
                    かなりのツワモノだと笑っていた。

                    でも放置すれば確実に死ぬ。
                    保護したものの実家の母は
                    部屋があっても置いておきたくない
                    と言うので私の部屋にゲージを買って
                    狭い食卓に乗せて世話をすることに
                    した。食卓の上にゲージを置いて
                    おくしかなかったので仕方ない
                    のだが、翌日食事時 テーブルに
                    白い平麺のような物が幾つも
                    ウネウネと食器の間に
                    這っているのを見つけた。

                    慌てて獣医に連れて行くと
                    回虫だった。

                    それから私の猫のケアが始まった。
                    潰された片目からは汁が いつも
                    出ていた。丁寧に引っ掻かれながら
                    拭き取り消毒して薬を塗り、
                    鼻管炎の薬を噛み付かれながら
                    飲ませる毎日だった。

                    猫の爪の傷は深くて消えない。
                    何とか片目からの汁が止まるまで
                    消毒と薬は続けたかった。

                    猫とはバトルから家では
                    付き合いが始まった。

                    決して懐かない。
                    私は敵で、用心する相手としか
                    見てもらえなかった。

                    それでも あきらめなかったせいか
                    片目の汁は止まり回虫もいなくなり
                    だいぶ大きくなって性格も
                    落ち着いてきた。

                    私を敵と見なさなくなって来た頃、
                    母が、猫を飼いたいからと
                    連れていってしまった。

                    その時は大変な時は
                    いつも私にやらせ、楽になれば
                    奪って行くとしか思えなかった。

                    でも すぐに次の保護猫が来たので
                    よけいな事を考える余裕はなかった。

                    こちらは さらに大変だった。
                    家に他に猫がいたため この保護猫が
                    何の病気を持っているかわからない
                    限り私は細心の注意を払わなければ
                    ならなかった。

                    完全なる隔離しか方法はなかった。
                    まだ小さ過ぎて検査も出来ないと
                    言われ仕方なく物置部屋に猫専用の
                    部屋を作った。もし何か大きな
                    病気を持っていたら他の猫に
                    感染するのでミルクをあげる時は
                    洋服をいちいち着替えた。

                    また この子も目が失明寸前だったので
                    獣医は残酷にも摘出手術を いずれする
                    事をを勧めていた。

                    唯一の賭けは3時間毎の抗生剤を目に塗る
                    という希望としては あまりにも
                    可能性の低い事だった。それも
                    洋服を全て着替えて  いちいち目に
                    軟膏を塗るという無駄かもしれない
                    作業をずっと続けるしかなかった。

                    やっと検査が出来る頃には私に
                    懐いてくれるようになっていた。

                    悪い病気は幸い持っていなかったが、
                    目に頻繁に軟膏をつける事は
                    怠ることはできなかった。

                    本当に ありがたいことに
                    片目の視力はほとんど無いけれど
                    両方摘出は免れるという事になった。

                    最初に保護した片目の子は
                    18歳まで寿命を全うした。
                    そして次の子は7歳まで生きることが
                    出来た。この2匹が一番印象に残って
                    いる。その後 うちには何匹も猫がいるが
                    こんなに手のかかった子はいない。

                    看病で寝ないで付き添ったり、
                    猫砂から便を宝探しのように探す
                    生活は続いている。

                    動物は排泄物で体調がわかるから
                    とても大切なのだ。

                    猫が家につくというのは迷信だと
                    思う。猫は心が通じ気まぐれだけれど
                    よくこちらを観察していてオトナの
                    面と子どもの面を持っている。

                    時々 私は猫に遊ばれている気がする。
                    末猫を見ていると一番若いくせに
                    ワンコ達より威張っている。

                    短毛種 長毛種 MIXとどれも
                    飼ってきたけれど皆同じに可愛い。
                    私は もっか猫から あの猫撫で声を
                    学びたい。ズルいのだ。

                    何をやらかしても あの猫なで声で
                    許される。プロの猫なで声は
                    効果抜群なのだ。

                    最初猫との出会いは しんどいの
                    一言だったけれど おかげで
                    世話をすることが出来る。

                    何でも良く解釈する。
                    母が大変な時を面倒みないおかげで
                    私は大変な時こそ面倒をみれる。

                    感謝の材料なんて探せば
                    幾らでもあるのではないかと
                    思うのだ。猫と私。
                    これは切っても切れない
                    仲なのかと思う。

                    2013-12-09 09:58:46投稿者 : Nachiko
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                      自死からはじまって

                      今日はチョット真面目な話。
                      皆さんは「自死」と「自殺」を
                      どう受け止めるだろうか?

                      実は今年10月31日付の
                      読売新聞報道によれば、
                      島根県は同月30日に松江市で
                      開催された県自殺総合対策協議会の場
                      で自殺者の遺族より「自殺」に含まれる
                      「殺」と言う文字の否定的な

                      イメージが「罪人」を連記させるなど
                      の理由で用語の見直しを求められていた
                      ことを受けて、2013年度より従来の
                      「自殺対策総合計画」の名称を
                      「自死総合対策計画」に改めると
                      発表した。合わせて、対策計画の
                      表題だけでなく県の文書規定でも

                      原則として「自殺」を使わず「自死」
                      に書き換える方針も表明された。

                      「自殺」の使用見直しを求めていた
                      遺族側からは県の決定を歓迎する声が
                      挙っているが、一方では過去にも
                      行われてきたこうした役所主導の
                      言い換えの例に漏れず
                      「過剰な言葉狩りではないか」
                      との批判の声も挙っているという。

                      この記事を見て私が思ったのは
                      遺族側と そうでない側との温度差
                      だった。

                      実際に自分が遺族だったら、どう
                      思うだろうという点。
                      非常にデリケートな部分を秘めている。
                      自殺と自死と、どう違うの?
                      という微妙なニュファンスが存在する。

                      日本人は国民性として「死」を美化
                      する傾向がある。

                      普通 その宗教観から死というものを
                      捉えるのだが、それとは別に
                      日本人は死をもって責任を取るとか、
                      身の潔白を表明するとかいう行為を
                      ゆるしてきたし、又良しとしてきた
                      文化を持っている。
                      独自の国民性を持った民族であることは
                      間違いない。

                      私は自殺といえば
                      自決・自害・切腹など様々な自らの死を
                      連想する。

                      死を持って清算するという考えは
                      今でも十分通用すると思っている
                      人は多いのではないだろうか。

                      日本では様々な言葉狩りが確かに
                      行われてきた。

                      しかし、自殺の危機介入に携わった事
                      のある私としては たとえそれが
                      自殺であろうと自死であろうと、
                      尊厳死であろうと安楽死であろうと
                      シュチュエーションが違うだけで、
                      幽体が肉体から離れるのを、
                      意図的にやったという点で共通している。

                      ここで尊厳死や安楽死にまで述べると
                      書ききれないので別の機会に触れるが、
                      自殺と自死について書くと、
                      これは本人にしかわからないものでは
                      ないかというのが私の素直な感想だ。

                      辞書で調べると自死は自殺を柔らかく
                      表現したもので自殺と同じ意味だと
                      書いてある。

                      しかし実際、自殺の危機介入に遭遇すると
                      自殺は極端な狭視になっていて、
                      物凄いパワーで死へ吸い込まれる空気を
                      吐き出す。ある医療従事者は こう
                      表現する。確固たる激しい死へ向かう人を
                      止めると こちらが引き込まれるから
                      絶対に止めるのは不可能だと。

                      確かに全身死へのアドレナリン満開で
                      それはそれは凄まじいパワーを発する。
                      教科書通りなど行かないのが常である。

                      それほど死への誘惑は強力で、一度
                      取り付かれて行動化した人を止める
                      のは至難の技となる。

                      何を言っても頭の中は死の事しかない。
                      死が全てを終わらせてくれると
                      信じている。
                      説得など役に立たない。

                      自殺危機介入は、ある意味賭けみたいな
                      処がある。それこそ強い薬でも医師が
                      飲ませて意識でも失くし、その場を
                      納めても無駄なのだ。

                      根本が死に向かって歯車が激しく回り
                      出したら火事場の馬鹿力どころではない。
                      とにかく何故 死にたいのか、
                      理由を聴くだけ聴く。

                      決して慰めなど言わない。
                      止めたりもしない。
                      ただ話を聴く。聴いて聴いて聴きまくる。
                      そのパワーを吐き出させる。

                      これは助けられるケースが多い。
                      何も語ってくれない場合はタチが悪い。
                      内にパワーのベクトルが向いているので
                      外に出せない。無口になり目は虚ろ。
                      顔色が悪く何を考えているのか
                      わからない。ある日 すっと消えてしまう。

                      自殺者は必ず信号を出す。
                      冗談混じりに死を口にしたり、
                      極端に自己評価の低いことを述べたり、
                      また自分の存在価値や自己否定など
                      何かの折りに口走る。
                      そして ある日バーンと破裂する。

                      私の師で凄い自殺介入をやった人がいる。
                      教科書では絶対悪い例だろう。
                      しかし助かったのだから結果良ければ
                      文句は無いと思う。

                      それは私が以前、子どもを どうしても
                      虐待してしまう人が子どもに手を上げたら
                      止まらなくなり、このままでは
                      殺してしまうというケースに似ていた。

                      まずは虐待の現場に駆けつけられなかった
                      ので、殴り出したら電話をもらうことに
                      していた。何度も受話器を落としながら
                      子どもを殴っているのが、その泣き声から
                      わかった。

                      とにかく受話器を片手で持ってもらうよう
                      頼んだ。片手なら両手で何かを
                      やらかすよりマシだと考えたからだ。

                      興奮しているので話している内容も
                      会話になっていない。長時間続く。
                      カウンセリングは50分位を対面で
                      傾聴するのが普通だが、私は
                      悪い見本の代名詞みたいない事
                      ばかり知っていてやる。


                      で、何を書きたいのかと言うと
                      私の師が何か自殺のサインを
                      受けた電話から感じ、聴いている
                      うちに これは本気だと確信して
                      取った行動が私と似ていたのだ。

                      師は携帯を持ったまま移動して、
                      電車の中、バスの中、徒歩と
                      来て待ち合わせの私の待つ場所に
                      受話器を耳にあてたまま登場した。

                      同じく、携帯を手にしている間は
                      自殺できないだろうという
                      最初の考えが、もしかしたら
                      何らかの働きかけが出来るかも…
                      に変わったという。

                      その携帯を握りしめたまま
                      ずっと移動する師も凄いが、
                      死にたいというパワーが発する
                      暴風に対抗するのは不可能に近い。

                      凪状態になるまで待つしかない。
                      私の経験でも自殺危機介入の時は
                      電話で関わった事が多い。
                      おそらく直接会っていたら
                      無駄骨に終わっていたかもしれないと
                      思わされる。

                      自死を自殺と言い換えると、これが
                      また大きく違って聴こえる。

                      飛び降り自殺、首吊り自殺
                      焼身自殺など印象が悪いせいも
                      あるのかもしれない。

                      数年前、自死についての
                      アンケートを盛んにやっていた処が
                      あるが、これは その人の宗教観や
                      置かれている状況、生育歴が大きく
                      丸をつける場所を変える。

                      まさに自殺を!と考えている人の
                      話を聴くと話すことの出来る人の
                      場合、こんな些細なことで?
                      と思うことが かなりある。

                      また その逆もあって これだけの
                      思いと出来事に遭っていて、
                      どうして平気で生きていけるのだろう
                      と思える人にも出会う。

                      言ってしまえば100億の負債で
                      自殺する人より数万円のお金がなくて、
                      いや数千円もなくて自殺を選ぶことの
                      方が多いのだ。

                      私は自殺の哲学と勝手に名付けて
                      分析してきたが本当に死にたい人より
                      生きたくて仕方ないとか大きな夢を
                      持っていた人の方が自殺に走る
                      傾向があるように思える。

                      あとクリエイターにおける自殺率の
                      高さに関しては、これは ある意味
                      かなり納得のいく物がある。

                      創作自体が見えない世界から通じて
                      いるので、かろうじて保っている
                      生命のヤジロベエが負の方へ
                      風が吹いた時、深い溝に引き込まれる
                      のではないかと思う。

                      荘厳に見せたいためなのか「自死」
                      という言葉が使われる傾向が増えたのも
                      事実だが、この根底にある
                      自分の勝手で生まれてきたわけでは
                      ないから、せめて死だけは
                      自分でコーディネートしたいという
                      のは理解できなくはないが、
                      人間が動物だという自然界での
                      野生退化を示す証拠かと思う。

                      地球的に見れば、集団自殺などが
                      ある動物で起きた場合、種の
                      増減のための自然淘汰という
                      考えもある。

                      自殺でも自死でも人間は自然界の中
                      の一つの生き物だという事を
                      放棄しているように思える。

                      明日もしかしたら事故に遭って
                      死んでしまうかもしれないのに、
                      わざわざ今日自殺した人がいたと
                      したら、その差はとても大きい。

                      家族や友人の心が違ってくる。
                      グリーフケアの観点から見たら
                      あまりの差に立ち会った人は
                      驚くだろう。

                      この世に生まれてきた段階で、
                      何も苦しみがないはずはない。
                      ご丁寧に感じる五感が用意され、
                      大きな格差社会があり、
                      目で見える部分では不公平が
                      強調されている。

                      一つトラブルが、片付けば
                      さらに次のトラブルが来る。
                      これぞ人生というものではないか。

                      失恋するために恋があると
                      考える私は、かえって何も
                      嫌な思いやコンプレックスを
                      抱えていない人に同情する。

                      いちいち自殺だの自死だの
                      していたらキリがない。

                      それは人々の繋がりが希薄になり、
                      自分の抱えている問題が
                      いかに小さいかを知る機会を
                      持てなくなってきている証拠でもある。
                      あとは巷の薬の知らされていない
                      副作用とも言える。

                      私は何が悪いとか反対とかは思わない。
                      人々の核家族化が進み、終身雇用制度が
                      崩壊し、派遣の欠陥や、職場が
                      グローバル化などということで
                      どんどん生きにくくなっている
                      現実が、若年から高齢者に
                      大きな皺寄せとなって襲ってきている
                      のを忘れてはいけない。

                      脳は思考にクセがつく。
                      一度 ダメなら死とか自分はダメな人間
                      だから死にたいとか思えば それは
                      暗示のように引き出される。
                      自分をわかっていないのは実は自分
                      だったりする。

                      だから、ここで もし死にたいと思うなら
                      「私は死にたいと思うほど辛い」
                      であって「私は辛いから死にたい」では
                      ないということになる。

                      お互いがお互いを思いやれる環境を、
                      作っていけたら 誰かが支えて孤独も
                      苦しみも軽減され、抱えている
                      悲劇のヒロイン・ヒーローも
                      もろくも崩される。

                      死を恐れることはない。
                      誰にでもやってくる。

                      自分で選びたい気持ちもわかるが、
                      周囲の気持ちを考えると、納得の
                      いく死を迎えるのが一番周囲を
                      傷つかせないのではないだろうか。

                      一般のグリーフケアでさえ遺族の
                      悲しみは相当なのだから、自分の
                      命の重さを知らないって本当に
                      残酷なことをやることになる。

                      人間だからって特別な生き物だと
                      思わない方がいい。
                      ありのまま、自然の流れの中で
                      生きるのが もし苦しみだけだったら
                      それは それを人に伝えていくべきだ。
                      こんなに大変なんだと。

                      その言葉で死ぬのを止まる人が必ず
                      出てくるはずだ。
                      一人で背負わないで抱え込まないで
                      生きて行こうと私は投げかける。

                      2013-12-08 09:06:47投稿者 : Nachiko
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                        分睡

                        毎日ブログを書くように努力
                        し始めて良い事がある。
                        一日の終わりが感覚的に
                        わかることだ。

                        外で仕事をしていても雑用で
                        外出していても私は時間があると
                        出先でコテっと寝てしまうので、
                        公共の乗り物に乗ると毎回悲惨な
                        事になる。

                        バスでも電車でも乗ると わずかな
                        時間でもコテっと眠ってしまう。
                        これは かなり困ったことで、

                        目的地に着かない結果になる。
                        つい最近も何度もやった。
                        まずか3駅の地下鉄区間の距離を
                        寝てしまい、起きると目的駅を
                        はるかに過ぎている。

                        そこへもってきて病的な方向音痴なので
                        知らない駅で降りた暁には、それこそ
                        内心パニックになる。

                        そこで毎回考えるのだ。
                        帰宅とは距離ではないと。

                        普通なら30分くらいの区間を
                        2時間以上もかけて帰宅した事も
                        あるので、これは本人としては
                        かなり困った問題でもある。
                        何故 こんなにコテっと寝てしまうのか
                        考えると根は深い。

                        元が引き籠もり体質なのだろうか。
                        生育歴で外出させてのらえなかったので
                        室内にばかりいた。

                        塾へも通えわせてもらえず家庭教師が
                        多い時で4人も来るという始末で、
                        幼い時から書き物やピアノばかり
                        弾いていた私は両親の目を盗んで
                        寝る時間を割いてノートに
                        読書感想文を作ったり、気に入った
                        主人公が出てくるとノートに
                        その主人公宛に拙いラブレターを
                        綴っていた。

                        そして自分の書きたいストーリーを
                        書き、さらにスケッチたっぷりの
                        文章と感じたことを毎日日記に
                        書いていた。これだけで相当な
                        時間を費やすのだ。

                        そんな私が音楽の仕事を始めた時、
                        私は楽曲を書くことに夢中だった
                        ので寝食忘れて没頭する。

                        室内での生活ばかりさせられてきたので
                        スタジオワークや自宅スタジオは
                        それこそ天国で時計も関係なく、
                        食べることも寝ることも
                        全く興味も欲求もなかった。

                        煮詰まって頭が沸騰したら
                        休憩というペースで睡眠は
                        意識したこともなかった。

                        食は、もともとグルメではないし、
                        胃に入れば何でも一緒という
                        味気ない所があるので
                        こだわりがない。

                        今でこそ、モントンソンや
                        添加物や合成着色料、保存料
                        農薬 放射能など仕組みが理解
                        できて優生学の 規模の大きさと
                        念入りな計画 無知の恐怖に
                        怯える。

                        私は目立ちがりやにはほど遠く、
                        人の後ろに隠れて立ってしまう。
                        かといって卑怯なのは嫌いなので
                        名前はしっかり出して意見や主張は
                        してきた。

                        何にも活動していなかった長い
                        この期間 ある大きな検索エンジン
                        には私は、ありがたくも
                        音楽関係ではなく「活動家」なる
                        肩書きが付けられていた。


                        睡眠は90分がワンサイクルなので
                        その時間深く眠れば体は動く。
                        とりあえず眠気もなく起きれる。

                        仕事の話は それなりに進んでいても
                        基本は私の場合毎日少しでも
                        作品のストックを創ることが
                        重要視される。

                        少し疲れても、お腹が一杯になっても
                        いつの間にか眠っていて慌てて起きて
                        作業に入る。

                        心配になって血液検査をしても
                        すこぶる数値が良いのだから
                        人間って、あまり眠らない方が
                        身体に良いのかとさえ思ってしまう。

                        それでも大多数の人は不眠を気にする。
                        地方に行くことがあっても仮眠を
                        取って出けば何時でも支障はない。

                        かえって一日を沢山使えて便利だ。
                        そんな私が気になっているのは
                        時間って一定の速度で流れていない
                        ような感覚だ。

                        やたら早く独りでいると鮮明に感じる。

                        で、私の欠点は時間を路線線路


                        を見ても地図みても
                        迷子になるという特技しか
                        すぐ出てこない。


                        分睡が無かったら、コテっと寝なくて
                        ただの方向音痴になると思う。
                        今日も昨日から、まだ作業がキリが
                        つかない。

                        人と似た真似っこの作品は創りたくない。
                        日本語のチョイスは、とても難しい。
                        かといって、あまりにも自分の世界を

                        追求し過ぎるとマニアック過ぎて
                        リスナーの数も減るだろう。

                        沢山の人に、こんな世界もあるんだよという
                        世界を、まず知ってもらってからという
                        のが先決だと思うから。

                        今日は作業の はかどらない日。
                        これを私は「便秘」と言っている。
                        さて…さて…だ。

                        曜日が変わったのが、わかったのだから
                        ブログは、ありがたいと思う。


                        2013-12-07 08:53:15投稿者 : Nachiko
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                          戦時中だってば…

                          ブログ投稿日が全く違う日に
                          なっている、
                          直し方 わじゃらない!

                          12月5日の出来事は
                          いかにも強行採決で
                          秘密保護法案を成立させたように
                          見えるけれど、私には そう
                          思えなかった。

                          今回NHKが特定秘密保護法案の
                          参院委員会中継をしなかったのも
                          国営放送局だから 国に添うでしょ。

                          かなり前から綿密な動きは
                          あったし、その都度
                          私は先に不安を感じてきた。

                          実際 日本人は本当に素晴らしく
                          おとなしく 忍耐強く勤勉で、
                          暗黙のうちに
                          政治・宗教を語るのはタブーと
                          されてきていて、それを
                          見事に受け入れてきている。
                          別に宗教観を持つことが必要とか
                          いうのではなく、タブーと言われると
                          察して避ける素直さに海外の人は
                          皆 驚く。

                          3.11で初めて日本の状況を知った人は
                          多いと思う。

                          空っぽのマーケットをに行って原発の
                          危険性に目覚めた人は まだマシだと
                          思う。地震の話題はOKでも
                          放射能の話題は友達も離れ、
                          会社でも嫌がられ とても口に出来ないという。

                          何故 こんなに強引に秘密保護法案を
                          急がなければならなかったのか、
                          国民の信用を失っても得るものが
                          大きかったのだろう。

                          ブロガーも処罰の対象になったのは
                          少しまえで、どんどん閉鎖されていく
                          ブログを見ているとブログで流していた
                          人達の事が見えてくる。

                          地球は4回進歩した文明が最終的に
                          核で滅ぼされているという説が強い。
                          その度に人間は這い上がり新たに
                          また文明を築いてきた。それが
                          また核で とんでもないことに
                          なっている。

                          小さな TVや日常に隠されている間に
                          着々と今の状態へと向かう準備が
                          進んでいたと思われる。

                          3S政策に乗り、人々は何も考えず
                          慌てて目に見える出来事になって
                          大騒ぎし始めている。

                          何より凄いなーと思うのは
                          自分は安全な場所に住居を
                          移転しておいて東京に住まいや
                          仕事場を残し抗議運動に
                          加わる人達かな。

                          燃量棒からの取り出しに失敗しても
                          国家秘密として情報公開の義務は
                          なくなるわけだし、そこで
                          多量の死者が出たら願ってもない
                          スムーズな人口削減ができる。
                          こんな楽な事はない。

                          火葬場は一杯で人口は確実に減っている。
                          今は都合の悪いことを教師に
                          教科書に黒塗りさえた時代より
                          タチが悪い。つまらないことで
                          警察は捕まえ指紋を取り、管理・DNAの
                          収集に必死に思えてならない。

                          誰が悪いとか言う前に
                          我々は無関心過ぎたのではないか?

                          今 立派な戦時中なのを把握していない
                          のではないか?

                          忍耐だけではなく、結束なのだ。
                          横やりなど見抜き自分は安全な処にいて
                          抗議に加わる人は置いておいて、
                          我々の見えない世界からの光の援護射撃も
                          負のエネルギー保存の法則も、
                          この機会に乗じて目立つ人を見抜いて信頼せず
                          心から自分たちで国を守ること、自分の体への
                          保身を覚醒しなければ、この戦争を
                          乗り切れない。

                          残念なことに目先のことに追われて
                          知らんぷりしている人が多い。
                          誰でも楽しい思いをしたい。

                          でも今は防空壕に入らなくても済む
                          のだから、せめて現状を冷静に
                          他人に乗せられないで自分で調べて
                          判断してみて欲しいと願う。

                          スマホでゲームに明け暮れる暇があれば
                          簡単なことだ。

                          皆で手を繋ぐことは何も間に合わない時期に
                          突然 声をあげることだけではない。
                          心からお互いが今を知り、把握し
                          騙されないことだ。

                          怒りが総理だけに行っているが根が深い
                          し、準備周到で他が入っているわけだから
                          今こそ 抗議の形も大きな転換期に
                          来ているのではないだろうか?

                          2013-12-06 10:00:48投稿者 : Nachiko
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                            イルミネーション

                            この季節 薄暗くなると こんな処まで
                            と思うえるほど そこここに、
                            イルミネーションが光っている。

                            いつの頃かイルミネーションが
                            エスカレートしたように思える。

                            私の中では この季節の
                            イルミネーションといえば
                            原宿の暖色のイルミネーションの
                            イメージが強い。
                            街路樹が痛むからと地元の人達が
                            反対して騒いでいたのを覚えている。

                            アベック達がロマンティックな
                            気分に浸ってイルミネーションを
                            眺めている間、小さな豆電球を
                            コードでグルグル巻きにされた
                            街路樹は悲鳴を上げていたのだ。

                            今では、あの暖色も変わり、
                            どこでも見かける ありふれた
                            イルミネーションでしかない。

                            そもそも発光ダイオードが
                            安価で大量生産しやすく、経費の
                            問題など利点が多かったことから
                            イルミネーションの多様化と進化が
                            身近になったと思うのだけど、
                            それにしてもチョット前までは
                            クリスマスのシーズンだけだったのが
                            今では一年中イルミネーションで
                            溢れている。

                            特に 12月に入れば拍車がかかり、
                            これでもか これでもかと
                            言わんばかりにイルミネーションが
                            あちこちで光っている。

                            何故か私はケヤキ坂の派手な街路樹の
                            イルミネーションが苦手だ。

                            何処に行ってもイルミネーションからは
                            逃げられないのだけれど、
                            風が冷たい夜は尚更心が寒くなる。

                            あのイルミネーションに寒々しい物を
                            感じてしまい 自分は下戸だけど
                            飲み屋の昔ながらの電球の見える
                            破れ提灯みたいな明かりの方が
                            心が ほんわかする。

                            かと言って飲み屋に入った事は
                            ないのが、また矛盾しているの
                            かもしれないけれど
                            風景として街を見ると、
                            私には そんな風にしか
                            感じれない。


                            代表的なのは東京タワーかと思う。
                            元来の東京タワーは本当に
                            素朴で美しかった。

                            午後9時には鐘が鳴り、模型を
                            部屋に置いておきたいような
                            形をしていて照明も趣があった。
                            今みたく節操のない下品なタワー
                            ではなかった。

                            パリの凱旋門の照明を手がけた有名な
                            デザイナーは東京タワーを
                            近くで見ると伊勢エビみたいな
                            不気味な照明にした。

                            今や単なる広告塔として使われている
                            東京タワーは、日によって、
                            媒体として使われるので節操などなく
                            とんでもない色になったりする。

                            私は外に出て 変な色に染まっている
                            東京タワーの時は溜め息をつく。


                            「時代の流れだね。
                            あなたは、そんな姿で収益を得るように
                            なるしかなかったんだねぇ」


                            ある意味 ねぎらいと励ましで見つめる。
                            街中に溢れれば ありがたみも薄れる。

                            人は すぐ慣れてしまう。
                            これだけ寒々しいイルミネーションが
                            氾濫していれば、私は秘湯の
                            暗い山道にでも行きたくなる。

                            そうでなくても行き交う人々を
                            見つめることしかできない私だから、
                            楽しそうに徒党を組んで歩いている
                            人達より道端にポツンといる人に
                            目がいく。

                            どんな背景を背負っているのだろう?
                            今夜泊まる処あるのかな?

                            親が入院した時も
                            頂いたお見舞いが食べ物だった時、
                            そっくり全部ホームレスのオジサンに
                            渡してきたりしていた。

                            自分の好きでホームレスをやっている
                            とか言う人がいるが全員が、そうでは
                            ない。接してみればわかる事だ。
                            一部分の人だけを取り出して、
                            そういう考えを持たれがちなのだと思う。
                            いつ なんどき私は何が どうなるか
                            わからないと思っている。

                            世の中も人生も思い通りにならなくて
                            当然なのだから。

                            今日で東日本の大災害から1000日。

                            報道こそテレビなどではされていないが
                            毎日仮設住宅で自殺者は出ているし、
                            場所によっては、この寒い中を
                            未だに放置されたままの状態でいる
                            人達もいる。1.6%くらいのお金しか
                            活かされていないという説もある。

                            そんな中で最初の年は節電とか言って
                            東京も暗かった明かりが今では
                            何事もなかったようなイルミネーション。

                            イルミネーションに空しさしか感じない。
                            美しければ美しいほど空しい。

                            足音さえ聞こえないけれど、
                            立派に日本は戦時中同然なのだから。
                            グローバル化の名の元に日本文化は

                            日本から消えていく。
                            日本人が日本の粋とか風情とか文化
                            とか残そうと努力せず、海外に
                            日本語学科が増設され日本文化に
                            興味を持ち、日本人より詳しいという
                            このご時世を どう捉えたらいいのだろう。

                            たかがイルミネーションかもしれない。
                            でも そんなイルミネーションに気を
                            取られている間に日本の伝統は
                            こっそり姿を消していっているのだ。
                            何か今日のブログは愚痴っぽいなぁ。

                            2013-12-05 01:57:01投稿者 : Nachiko
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                              訃報と思わないように…

                              今日は雑用で お籠もりもできず
                              夕方帰宅し、何気なくFacebook
                              を見たら久米大作氏の
                              [青山純 訃報]とのニュースが
                              載っていた。

                              え?嘘でしょ?

                              私は すぐに詳細を聞いた。
                              詳しく知って本当なのだと信じるしか
                              なかった。

                              涙を こぼしながら先に逝って欲しくない
                              ミュージシャンに
                              「身体を大切にして下さい」と
                              メールを書いていた。

                              毎日 「おはようございます」
                              で始まって、お天気の話をFacebook
                              に書いていたのが先週の金曜日くらい
                              だっただろうか?無かったのは。
                              気にしていなかった。

                              私の3thアルバムを叩いてくれた。
                              他でもCMとかでも一緒にやったし、
                              あのキレの良い素晴らしいドラムは
                              とても印象的な出会いだった。

                              私が他のパラレルワールドに行っている
                              時も、悲しい話は すぐに
                              入ってきた。
                              ギターの大村憲司さんが召されたのを
                              知った時も、自分は そこに戻させて
                              もらえないのだと一人で泣いていた。
                              追悼のサイトに色々な事を書き込んで
                              いるのを、ただ眺めていた。

                              日付けが変わって昨日になるけど
                              青ちゃんが召されたこと、
                              私が やっと音楽に帰還できた直後だった
                              だけにショックが大きかった。

                              皆に元気でいて欲しい。
                              Facebookは青ちゃんの事で一杯に
                              なっていった。

                              「私 戻ってきたよ」一言 顔合わせて
                              言いたかった。

                              身体が心配なミュージシャン…
                              大丈夫だよって私に言うけど
                              信じないんだからね!

                              帰還ライヴ終わって早々に
                              何か時代が動いて行くようで
                              表現できない気持ちになる。

                              今せっかく メジャーコードの曲を
                              書いている最中なのに。
                              パンと広がる良い感じにサビを
                              ずっと考えている処なのに。

                              「人間は皆一人だよ」って今回言われた。
                              でもね、でもねって言いたくなっちゃう。
                              よく前 「でもね でもねの奈智子さん」と
                              樹木希林さんに言われていた。
                              私の口癖なのかな?

                              寂しいこと 悲しいことって 
                              はい そうですかって思えないから。

                              諸説はあっても人は召されると
                              必ず魂の重さだけ体重が減るの。
                              肉体と幽体が離れただけ。
                              魂には終わりはないって信じている。

                              私の愛読書の東大病院の救急専門医が
                              長いこと救急医療に関わって
                              不思議な体験をして書いた本がある。
                              全く魂とか霊とか信じていなかった
                              医師が、とても不思議な体験をして
                              綴ってあるのだ。

                              だから、私は人間は見た目は
                              たった一人かもしれないけれど
                              絶対に違うと思う。

                              そして召されるということは
                              避けられないことで、ただハードが
                              やられただけで中のソフトは永久に
                              残っていて目に見えない世界に
                              移行しただけだと信じたい。

                              だから訃報ではないんだって思いたい。
                              不老不死を望んで幸せな人などいない
                              ではないか。

                              そんなの望んでいる人は魂を悪魔に
                              売った人達ばかりではないか。

                              子供の頃から土葬のお葬式を見たりして
                              死生観とは、いつも向き合ってきた。
                              私は いつも一人ぼっちだったから
                              何故生きているのかとか疑問も
                              持って育ってきた。

                              でもね(やはり口癖ですね)、
                              私は どんな時でも そこにプラスに
                              変える事を考える特技がある。

                              さて、訃報を富宝に受け取れる
                              ように感性を研ぎすませなければ。
                              風や空気の中から
                              青ちゃんのドラムが聴こえてくるはず…

                              2013-12-04 07:35:50投稿者 : Nachiko
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                                ブッコラの尻尾の毛

                                今日は私が小学生になる前に
                                読んだ印象的な民話の話を書きます。

                                私は小さい頃 重い肺炎にかかって
                                ずっとベッドで安静にしていなければ
                                ならない日々を送ったことがあるんです。

                                何しろ子供ですから自分で本なんて
                                買いに行けません。
                                バリバリの本の鬼の母は やたらに
                                本ばかり家に置いておくのです。

                                この頃は まだ私が幼かったせいか
                                ひらがなで文字の大きい挿絵のついた
                                本がドッサリあったので寝たきりの
                                私は暇つぶしにベッドで本を読む事
                                が唯一のルーティングワークだったわけ
                                です。

                                まだ小さいからという事だったからか、
                                民話系が多かったのです。

                                その中で幾つもある童話や民話の中で
                                何故か私は“ブッコラの尻尾の毛”
                                という話が好きになり何度も何度も
                                読んでいました。

                                それはアイスランドの昔話でした。
                                昔昔から始まるやつで、お決まりの
                                貧乏な おじいさんと おばあさんと
                                息子がいましたが最初の説明です。

                                その家族がブッコラという雌牛を
                                一頭だけ大切に飼っていたのです。
                                それがある日 突然居なくなって
                                しまうのです。

                                これは悪魔に さらわれてしまったに
                                違いないから探して来ておくれと
                                息子に頼むのです。

                                息子は長い長い旅の支度をして
                                お弁当を食べて、歩いて一生懸命
                                ブッコラを探しました。

                                いくら探しても居なくて名前を
                                呼ぶと「モゥ」と返事が聞こえたのです。
                                やっと見つけるとブッコラは太い鎖に
                                繋がれて岩の牢屋に閉じ込められていました。

                                息子が鎖を切ってブッコラを連れて
                                逃げると悪魔が大きな雄牛を連れて
                                現れて息子を追いかけてきたのです。

                                そこで私は ハラハラドキドキします。
                                せっかく連れ出したブッコラが
                                また捕まったら、どうしようって
                                心配しゃうのです。

                                するとブッコラは
                                「あたしの尻尾の毛を抜いて後ろに
                                放りなさい」というのです。

                                おお!牛が口をきいたと私は
                                ここで わかっているのに何度読んでも
                                妙に感動します。

                                しかもですよ。
                                ブッコラは息子が そうすると
                                呪文をとなえるのです。

                                牛が呪文をとなえるなんて想像も
                                つかないのです。
                                私の少ない想像力では思い描けない
                                画期的な出来事なのです。

                                ブッコラは呪文をとなえたあとに
                                「尻尾の毛 大きな川になれ」
                                と言うのです。

                                嘘みたいです。尻尾の毛が川になるなんて
                                どんな川なのでしょう。

                                茶色い水の川でしょうか?
                                それとも毛玉が固まったような川
                                でしょうか?

                                その川を見たくて仕方なくなるのです。
                                しかし、その川の水を悪魔は
                                連れてきた雄牛に川の水をガブガブ飲ませて
                                川を無くしてしうのです。

                                何とシュールな!

                                川って海に通じているものです。
                                それを一匹の雄牛が全部水を飲み干す
                                なんて、これも想像できないのです。

                                この雄牛のお腹は水でパンパンになった
                                のではないか?

                                川の水を全部飲み干せる胃袋を持つ
                                雄牛って どれだけ大きいのか?
                                頭の中は?で一杯になります。

                                川が無くなって絶望的になった息子は
                                捕まると思うのですが、またブッコラは
                                「じゃぁ もう一本毛を抜いて」と
                                息子に言うのです。

                                すると今度は物凄い火の山が出来るのです。
                                まさに ありえない世界だと私は
                                ベッドの中で火の山を想像します。

                                ところが悪魔の雄牛は さっき飲んだ
                                川の水を全て吐き出して たちまち
                                火を消してしまいます。

                                そこで私は さっき雄牛が飲んだ川の水の
                                量が半端な量でなかったのだと納得します。
                                そして牛が水を吐き出して火を消す光景を
                                また想像するのですが、あまりにピンと
                                来なくて悩むのです。

                                吐き出した水の勢いは どうだったのだろう?
                                どんな格好で吐き出したのだろう?
                                これは由々しき大問題に思えるのです。

                                雄牛だから前脚を前に出して、
                                突き出たお腹を下にして噴水のように
                                吐き出したのか?

                                それとも口と鼻の穴と両方使ったのか?
                                それでも読み進むと息子は今度こそ
                                捕まると弱気になるのに、また
                                ブッコラは「じゃあ、もう一本毛を抜いて」
                                と言うのです。

                                今度は何になるのだろうと期待します。
                                川(水)→火の山(火)だから次の
                                出し物に期待は膨らむのです。

                                今度は見上げるほどの岩山ができていました。
                                ここで なるほど…岩(土の代わりで石かな?)
                                などと子供なので単純に思うってしまいます。

                                悪魔は
                                「こんな山なんか雄牛の角で一突きで穴を
                                あけてやる」と言って角を突かせて穴をあけ
                                その穴をくぐって来ようとします。

                                ところが穴が細すぎたため悪魔と雄牛は途中で
                                詰まってしまい そのまま岩になってしまいます。

                                これで めでたくブッコラと息子は
                                おじいさんと おばあさんの家に帰ることが
                                できました…で話は終わります。


                                さて、幼い私の悩みは ここから始まります。
                                今まで普通の雌牛だと思って飼っていた
                                ブッコラが呪文をとなえる魔法使いで、
                                しかも人間の言葉を話したわけです。

                                今まで通りに暮らせたのでしょうか?
                                物語を頭から見ます。
                                この家族は物凄く貧乏だと設定されている
                                のです。ブッコラは飼われていて
                                知っているはずです。

                                魔法が使えるのに何故 おじいさん一家を
                                助けてあげないのだろうと思うのです。
                                自分が捕まった時にだけ魔法を使った
                                事になります。

                                可愛がってもらっているのに
                                ブッコラって本当は性格の悪い牛なのでは
                                ないかとか、助けることはなかったのでは
                                ないかとか小さな心で考えさせられては
                                何とかブッコラを好きになろうと思い、
                                何度も読み返していました。

                                その昔話を読んでから物の見方が
                                小さいながら変わったのです。

                                今は見かけませんがホコリを取る
                                ハタキってあったのを知っている人は
                                いますか?

                                一日に何度も掃除をする祖母は
                                畳を昔ながらの座敷ほうきではいて、
                                必ずハタキでフスマや障子をパタパタと
                                やっていました。

                                細い繊維や ほうきの穂先が ブッコラの
                                尻尾の毛みたく一本抜いてほうったら
                                何かが起きるのではないかと、
                                思ってしまったのです。

                                せっかく昔話の世界なのだから、
                                そのままに止めておけばいいのに
                                わざわざ一本抜いて何事も
                                起きなくて とてもガッカリしたのです。

                                グリム童話・アンデルセン・世界の民話
                                日本昔話・月刊誌で取っていた生物とか
                                星の雑誌…どれも思い出が沢山です。

                                月刊誌の科学雑誌は 幼かったので
                                写真を一生懸命見ていた記憶があります。
                                かな文字しか読めなかったので、
                                ふりがなを読んでいたけれど、
                                星や動物や植物の図鑑が載っていると
                                実際に見たくてボロボロになるまで
                                手にしていて表紙がヨレヨレに
                                なった頃 新しい次の月の雑誌が
                                来て嬉しかったのを覚えています。

                                ブッコラは今考えても良い牛だったのか
                                悪い牛だったのか わかりません。

                                でも「ブッコラ」という名前が
                                とても好きになったので私は
                                密かに抱いていた大きくなったら
                                ヤギを飼うという夢が叶ったら、
                                ブッコラと名付けようと決めていました。

                                この頃の思い出は鮮明に色々あります。
                                小学生になった時 文学の鬼みたいな母が
                                古本市で買ったとか言って、
                                いきなりドサっと大きな文字で子供向け
                                ではあったけれど、本を読みたいなら
                                まずコレを全部読んでからでないとダメ!
                                と買い込んだ多量の本を目にした時が
                                今思うと苦痛だったけれど 確かに…
                                とも
                                思えるので あれが母は文学の専門家だった
                                ので よほど本の文字の大きさや
                                読ませたい物を最低限物色したのだろうと
                                大人になって理解できます。

                                母は文学は古典から読みなさいと
                                厳しかったから小学生に読ませる
                                古事記や日本書紀など どうやって
                                あんなに色々な古典を探してきたのだろうと
                                今さら思えるのです。

                                あれだけの本の洗礼を いきなり受けたら
                                あとは どんな本も楽しく読めるように
                                なったし、一人の時間ばかりだったけれど
                                本のおかげで随分楽しい思いもできたから
                                過ぎてしまえば感謝かな?なんて思います。

                                不満は絶対に推理小説を読ませて
                                くれなかったこと。

                                ルパンが好きで全巻読み終わった後だった
                                から根に思っていないけれど、
                                学校から帰ったら書庫が そこだけ空っぽ
                                になっていて、探したら押し入れの奥に
                                ルパンシリーズが紐で括って隠して
                                あったこと。

                                母の持論は、推理小説は疑り深くなるから
                                読んで欲しくないそうで…

                                もう そんな処からは抜けたいななんて
                                思う この頃なのです。

                                2013-12-02 08:01:10投稿者 : Nachiko
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                                  気楽に普段の口調で

                                  どうもブログを書きにくいと
                                  思っていたら口調が やけに
                                  よそよそしい感じがした。

                                  もっとラフなはずなのに読みにくい。
                                  普段と何かが違うわけですよ。
                                  こりゃどこかに気取りが

                                  ありゃしませんか?などと思って
                                  考えてしまったわけです。

                                  他の人のように美味しそうな写真を
                                  載せるわけでもないし、
                                  ファッショナブルでもない。

                                  本人の趣味趣向が そういう物の上に
                                  成り立っているのだから
                                  どーにもならない。

                                  油ギタギタの物は苦手だから
                                  揚げ物っていえば衣を剥がして食べるし
                                  私の考えるグルメってチト違う。


                                  本日のショックな出来事は玄米から作って
                                  いる乳酸菌を初めてカビを生えさせてしまった
                                  という事だ。

                                  どーでもいいことに聞こえるかもしれないが
                                  これは大きな出来事なのですよ!


                                  何しろ、そのせいで豆乳ヨーグルトを
                                  作れなくなってしまったのだから!

                                  元々 牛乳は牛が子牛に飲ませるもので
                                  人間の身体には合っていない。
                                  これは数々のデーターが
                                  物語っている。

                                  詳しく語っている人が多いので、
                                  ここで説明する必要もないから
                                  書かないけれど私は飲まない。


                                  長いことヤギを飼いたかった。
                                  うんと小さい頃 田舎に滞在していた事
                                  があって、そこにヤギがいた。


                                  いやぁ〜、あの鳴き声は素晴らしい。
                                  幼稚園に入る前か その最中かだけど
                                  覚えていない。

                                  私はヤギに夢中になったのですよ。
                                  あの匂い。草をはむところ。
                                  あの眠そうな瞳。暖かい手触り。
                                  心の中で誓ったわけ。

                                  大きくなったら玄関先にヤギを飼って、
                                  散歩タイムにはヤギを連れて街を歩くって。

                                  まるで映画『ホテル・ハイビスカス』の
                                  ように帰宅したら、まずヤギが迎えて
                                  くれるなんて夢みたいじゃない?

                                  ヤギに憧れる鼻たれ娘は知らない田舎で
                                  東京モンとか言われて、土地の悪ガキに
                                  取り囲まれて意地悪されたのだけは
                                  ハッキリ覚えているのです。


                                  いや、本当は忘れているはずなのだけれど
                                  その時、私が やらかした事があって
                                  どうしても記憶に残る羽目になったのですよ。


                                  いえね、たいした事じゃないんです。
                                  私は いつも おとなしい女の子で
                                  通っていたそうですから。


                                  でもね、その時 魔が刺したのでしょうねぇ。
                                  今は もう無いですが、
                                  皆さんは“肥だめ”って知っていますか?


                                  そう。あの人間の糞尿を肥料に溜めている
                                  小さな溜め池みたいな所です。

                                  悪ガキ達にツンツンと追い込まれているうち、
                                  どういうわけか幼い私は身体の向きを
                                  変えて、どうやったのか覚えていないのだけど
                                  一番のガキ大将を正面から押して、
                                  背中から糞尿の溜まった“肥だめ”に
                                  突き落としてしまったそうなんですねぇー。



                                  鼻から口から耳から糞尿まみれで、
                                  それはそれは大変な事になったそうな…
                                  当の私は「ヤギー!」と言って帰って行った
                                  そうで…


                                  この手の話 実は私 幾つもあるんですわ。
                                  あまりにリアルで笑うにも申し訳ない話。


                                  んで、話は今日のショッックな話なのだけど
                                  そんなわけで私の食べたいグルメな
                                  ヨーグルトの一つが自分の家で作った
                                  ヤギミルクのヨーグルトなんですわ。
                                  まだ叶っていないんです。

                                  何せ ウチって庭もないし、
                                  どーにもセンス悪い街なんですわ。
                                  何が悪いって いつだったか
                                  大きな蛇を散歩させている人がいたり、
                                  最近では八百屋のオバチャンが猫に
                                  リールをつけて散歩させているし、
                                  ワンコに至っては高級犬服の
                                  品評会みたいな街でね。

                                  私なんぞ 手作り感満載の服を着せたり、
                                  実用的な服しか着せないんですわ。

                                  どうしても犬種が服を着せないと皮膚の
                                  関係で駄目なので必要最低限ですよ。


                                  で、何が言いいたいかっていうと、
                                  私は不満なのですよ。
                                  愛する故郷にヤギを連れて歩いている人が
                                  誰も居ないって事が!


                                  本当にヤギが似合わない街なんですわ。


                                  以前祖母が生きていた時、屋上に
                                  ニワトリを飼おうとして私の両親と
                                  大げんかになりましてね、
                                  祖母の言い分は正しいのです。

                                  新鮮な卵を食べたい!


                                  それを断念させられてから祖母は
                                  屋上一面に、スイカを植えたのですよ。

                                  最悪でしたよ。
                                  カラスのせいで。

                                  全部 食べられてしまいました。
                                  頑張ったのですけどね。
                                  奇妙な形のカカシを置いたりね。

                                  でもカラスは当時怖かった。
                                  私の犬達を屋上で日向ぼっこさせていると
                                  何羽も増えてくるんですもの。

                                  スイカで懲りない祖母は階段やベランダに
                                  プランターを置き、茄子やキュウリや
                                  ネギや色々植えていましたよ。
                                  それってグルメですよ。
                                  味噌も作っていましたから。

                                  うどんを打ってもメチャ美味しかったし。
                                  私は手打ちうどんを作る傍で、粘土の
                                  代わりに、うどん粉を こねて遊んで
                                  いました。

                                  作ることって楽しいわけです。
                                  添加剤も保存料も合成甘味料も
                                  何も入っていないわけで、自分が種を
                                  蒔いて育てたトマトとかを冷たくして
                                  真夏にガブってやると、
                                  チョコレートなんて欲しいと思わない
                                  んです。


                                  甘い物が食べたかったら、お玉に
                                  ザラメと水を入れて煮えたら
                                  重層を少し入れて割り箸を刺すと
                                  棒付きのカルメン焼きの出来上がり!
                                  熱々のカルメン焼きって美味しいです。


                                  柔らかくて、ホロホロしているの。
                                  ああ、思い出していまった。
                                  私には母の思い出はないけれど、
                                  祖母がやっていた事の思い出があるって。


                                  で、また話は戻りますがヤギミルクを
                                  沖縄で買うと味が違うので驚くのですよ。

                                  ヤギの乳は絞りたてを沸騰させて飲む
                                  のです。フーフーしながら飲むのです。

                                  クセが少しあるけれど私には
                                  最高に美味しい思い出の味なのです。


                                  いつかヤギを連れて散歩したいなぁ。
                                  あのヤギの小屋でワラの上で寝てみたい。


                                  私がヤギを 幼い時から これだけ
                                  憧れてきたのに玄関先に一緒に住めない
                                  家にいるなんてナンセンスだと思ってしまう。


                                  なんて いつも頭にある事を書いてみました。
                                  これから玄米を使った乳酸菌を作る準備を
                                  しなくちゃ。この季節は発酵期間が読めなくて。
                                  今日は この辺で。

                                  2013-12-01 03:57:50投稿者 : Nachiko
                                  この記事のURL コメント(2) トラックバック(0) nice!  あしあと

                                    光を集めて…

                                    LIVEが終わって とても爽快感がある。
                                    今までの絡まった問題が片付いた証でもある
                                    ので、これでやっと軌道修正できた!
                                    みたいな妙な爽快感だ。

                                    これで やっとスタートできたのだと
                                    思うと時間が経つにつれて嬉しくなる。
                                    始まりは終わりの一歩だと知っているが、
                                    それは何にでも言える。

                                    こうして生まれてきたことさえ
                                    実は すでに死に向かって歩き出した事
                                    なのだから。

                                    死生観を本気で考え出したのは小学生の頃
                                    だった。
                                    大人の矛盾や学校の教育に
                                    子供ながら いつも疑問を持っていた。
                                    どうあがいても多数派が勝ち、少数は
                                    負ける。事の真偽など問われない。

                                    そもそも人間はスケープゴートを作ることが
                                    大好きなのだ。
                                    人が一番結束を固めるための最短最強の
                                    方法は一人の共通の敵を作ることだ。
                                    この方法は社会でも同じ手法が常に使われて
                                    いる。わかりやすいのは政治など一目瞭然
                                    ではないだろうか。

                                    皮肉やの私は大抵 少数派に賛同してしまう事が
                                    多い。親切な友達はコッソリ損するから
                                    意見を変えろと忠告してくれることもあった。

                                    そんな私は噂話を丸呑みにすることも好まない。
                                    何をするにも百聞は一見にしかずなのだ。
                                    確かに噂通りの事もある。
                                    言われていても仕方ないなぁと思う場面に
                                    遭遇したことも何度もある。

                                    しかし よくよく見ていると結構 その原因に
                                    複雑な背景が隠れていたりすることがある。
                                    何故頭ごなしに先入観で物事を見たり
                                    偏見を持って見るのか 理解できないことも
                                    多くある。

                                    そんな私が特にハマったのはアルベール・デュマ
                                    だった。ちょうど小学生から中学生になる頃から
                                    ハマり出した。

                                    とても とっつきやすい作品が多かったせいもある。
                                    胸をときめかせワクワクしながら何度も読み返し
                                    本屋街を歩き回って訳者を換えたり古本を
                                    漁ったりして夢中になった。

                                    デュマからは その後の私の人生観の道しるべに
                                    なる主人公の台詞を得ることができた。
                                    「私は待つことと、希望を持つことが出来る」
                                    物語の最後に出てくる台詞だ。

                                    この“待つこと”というのは非常に難解で
                                    困難で苦しみを伴う。
                                    良い状態で「待つ」なら誰でも出来る。
                                    しかしデュマは最悪の状態で「待つこと」
                                    の話を書いていた。

                                    それだけでも気が遠くなる程大変なのに
                                    さらに“希望を持つことが出来る”などと
                                    大胆な事を言わせて不屈の精神を貫いて
                                    主人公は大海へと出て行くのだ。

                                    この二つの事は私の根底に根付いた。
                                    “待つ事だけは誰にも負けない”
                                    そんな思いで歩いてきた。

                                    よく止まない雨と生放送は無いとか、
                                    終わらないLIVEはないとかいうが
                                    私は その考え方が大好きだ。

                                    そんな私が偶然 入院していた中学生の頃
                                    差し入れてもらった当時あった
                                    MUSIC LIFEという雑誌が2冊あって
                                    看護師さんに誰かに1冊あげて下さいと
                                    頼んだら、同じ年の子がやってきて
                                    本のお礼を言ってきた。

                                    私が普段聴かせてもらえないアルバムを
                                    録音して沢山持っていた。
                                    それがピンクフロイドとEL&Pとの
                                    最初の出会いだった。

                                    日曜の誰も居ない外来の会計の待ち合いで
                                    大きな音で何ともいえない音の世界が響いた。
                                    どれくらい深くのめったか 今考えると
                                    面白いくらいだ。

                                    退院した後はキースの展覧会の絵を必死に
                                    コピーしたり、ピアノの横に立って
                                    もう一台シンセがある気分に浸って弾いて
                                    みたり…まるで幼子のようにキースに憧れた。

                                    そこからプログレと言われる音楽が骨身に
                                    染み付いていくのに時間は かからなかった。
                                    子供なんて親に禁止されればされるほど
                                    隠れて何かやりたくなるものだ。

                                    深夜は布団を頭から被り内緒で買ったラジオに
                                    イアフォンをつけて これというバンドを見つけては
                                    ノートに書き 感想と曲名などを残した。
                                    Zeppに出会ったのは その少し後だった。

                                    本屋で四重人格という本を買い先に
                                    The Whoに出会ってしまったので私は
                                    当時インド哲学にドップリのピートに
                                    ガンガンに惹かれてしまいTOMMYを
                                    観た時はショックが大きくて暫く何も
                                    手につかなかった。

                                    よくあるパターンとしてはビートルズとかと
                                    馴染むのだろうが私には確かにポップだとは
                                    思えても心をROCKされる衝撃はなかった。

                                    はるかにストーンズの方が私は魅力的に思えたし
                                    あの頃は たった一人で布団の中で
                                    ペイジのギターとプラントのヴォーカルを
                                    フルヴォリュームで聴いて 親が居ない時は
                                    母の三面鏡(当時はあった)に
                                    ギターを腰に構えてレスポールを想像しながら、
                                    一人芝居をやっていたのを覚えている。

                                    自分でも病気じゃないかと思うほど
                                    ROCKを知りたくてバンドの相関図を作り
                                    高校の時は自由課題でROCK史と称して、
                                    親に学校の授業で使うと言って堂々と、
                                    書籍関係を買えるだけ買った。

                                    音の資料が必要だと言ってアルバムも何枚も
                                    買わせて古いルーツを探ってバンドの
                                    歴史を追って聴いていった。

                                    よくも思いついたと笑えるが当時は真剣だった。
                                    ヘッドフォンなるものを その時やっと手に入れ、
                                    アルバムも家で聴けるようになった。
                                    それでも決して両親の前では聴かなかった。

                                    私にとって心臓の鼓動とも言えるROCKを
                                    誰にも汚して欲しくなかったからだ。
                                    ピアノは手が小さいのでベートーベンは難しく、
                                    ショパン弾きになっていた。

                                    私にとってドラムの音もギターの音も
                                    全て大切な宝物だった。
                                    私にはROCKが光そのものだったのだ。
                                    ROCKの許容範囲は無限大で心を打つ音楽は
                                    全部ROCKだと信じていた。

                                    身体の中に心臓が動いて血液が巡り、
                                    トク・トク・トクとROCKする音がある限り
                                    目に見える世界でも存在する。

                                    そして肉体が滅びても感動でときめく胸の
                                    鼓動は目に見えない世界でも延々と存在する。
                                    光を集める作業は幾つもある。
                                    その土台が私はROCKだと信じている。
                                    空駆ける風もROCKしている。
                                    水平線の彼方から顔を出す太陽もROCK
                                    している。

                                    満天の星空に優雅に姿をさらす月も
                                    ROCKしている。
                                    私は そんな光を集める作業が好きでたまらない。

                                    2013-11-30 06:55:40投稿者 : Nachiko
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                                      11月27日帰還LIVEを終えて

                                      すっかり風も冷たくなった この季節
                                      私の ささやかな帰還LIVEに遠路はるばる
                                      足を運んで下さった方、仕事を抜け出して
                                      来て下さった方など本当に信じられないほど
                                      感動する事の連続だった。
                                      そこには懐かしい方も来て下さったり、
                                      予期もしていなかった出会いもあった。
                                      私は待っていて下さる方達がいる事を
                                      何となく知ってはいたが実感がなかった。
                                      あまりにも遠くて行きたくても 行けなくて
                                      残念だとメッセージを幾つも頂いていたし、
                                      目の前に 以前からの私の音楽が大好きだという
                                      方がいらしても、きっとピンと来ないのではないか?
                                      などと思っていた。
                                      しかし 大きく裏切られた。
                                      目の前に現れた私の音楽を ずっと聴いてくれていた
                                      方達は言葉を絶するほど温かく優しく素敵な瞳をしていた。
                                      知らないって恐ろしい。
                                      思わず手を握りしめたくなる眼差しに感動しかなかった。
                                      私を身近で知っている人は皆同じ事を言うと思う。
                                      本人も自覚している。
                                      とにかく処世術が下手なのだ。
                                      嘘をつくと気分悪くて眠れなくなる。
                                      陰口言うなら本人に直接言ってしまう。
                                      愛想笑いも出来ない。
                                      こういう人間は大抵 目立たない所で人が面倒がる事を
                                      黙々とやることを好む。
                                      他人には「損な奴」「大人になりきれていない」
                                      と言われているのが わかっていても仕方がない。
                                      これといって欲もなく、捨て猫や処分される犬達の
                                      世話や家の老人介護をドッカリやり
                                      この年で友達といえる存在と食事会なるものにも
                                      行ったことがない。
                                      やっと数年前位数本映画を観に行けた。
                                      道行けばホームレスの人に目が行き
                                      そこから監視の厳しい家から抜け出し
                                      山谷に通ってみたりして、気づけば
                                      私は常に何かしら家の事をしながら他の世界に
                                      ワープして生きてきた。
                                      メンタル問題でも深く首を突っ込み結局8年間も
                                      大学のカウンセリング研究所に勉強に通って、
                                      昼夜を忘れてパソコンとメールと対面ととで
                                      カウンセリングに明け暮れた時期もあった。
                                      私は そんな暮らしの中で自分と全く合わない
                                      物凄いブランド志向の高い私学に娘を入れ、
                                      スタイリスト&ヘァーメイクの友人に相談し
                                      ‘’私学のママ・ファッション”なるものを
                                      教えてもらったりして発狂しそうになって
                                      頑張った。何しろ私の住まいは都心の
                                      ドーナツ現象で公立の学校が一クラスが
                                      数名という所で、しょっちゅう合併統合の
                                      繰り返しだった。選択するにも、まともに
                                      子供の数が揃っている学校を家の近所に
                                      探したら私と別世界のママ達の巣窟だった。
                                      何故 子供に勉強をしなさいとか言う必要があるのか?
                                      何故 高級な服ばかり着るのか 私には理解できなかった。
                                      私はピアノ一台と紙とペンと簡単な録音するものが
                                      あれば天国だから 人の噂話も何も興味がない。
                                      テレビはBBCかCNNをかけていたし、
                                      ホームドラマを見ず、2年間構成とシナリオの勉強も
                                      していたので台所で毎週ペラでシナリオを書いていたり、
                                      そのずっと後は狭い試写室で試写会巡りをしたりして
                                      今思うと ぎゅうぎゅう詰めの日々だったと思う。
                                      当然 パラレルワールドなので思い出したくない地獄も
                                      這いずり回って今ここにいるのが奇跡としか思えない
                                      気持ちもある。
                                      色々やっても 私は不器用で気づけば損をするという
                                      図式は変わらず ここまでくれば乾いた笑いしか
                                      出てこない生き方の連続できた。
                                      要は 正直者は損をし、人生は あきらめを学ぶためにある。
                                      そう思ったら、なーんだ。
                                      私って空回りしていただけじゃないかと気づいた。
                                      いつもいつも 音楽の世界に戻りたいと思っていた。
                                      しかし複雑な問題があって不可能だとわかりながら
                                      曲を書いていた。
                                      本当の自分を生きることが どれだけ大変な事か!
                                      嘘の自分を生きることなら簡単なのかもしれない。
                                      お酒を沢山飲めて、憂さ晴らしが出来たら
                                      どんなに楽だろうと毎日思っていた。
                                      絶望は絶望しか連れて来ないのだ。
                                      しょせん わかったような事を言っている人も
                                      結局は他人事なのだ。
                                      人は皆 違った苦しさや辛さを抱えて生きている。
                                      一日に一食でも食事にありつける事に感謝して
                                      生きている人は どれくらいいるだろう。
                                      私は雨が降ったり寒い日には必ず、
                                      屋根のある家に住めて良かったと感謝する。
                                      それなのに 満足せずに豪邸を建てて自分だけの
                                      ために お金を使う人を見ていると 凄いなーと
                                      思う反面 私には真似できないと思ってしまう。
                                      お金の使い道が また私はズレているのだろう。
                                      自分へのご褒美なら 一杯のコーヒーがいい。
                                      そんな私に3.11という強烈な出来事があった。
                                      クラッシュ爆弾が脳みそに落ちた。
                                      全てが吹き飛んだ。
                                      改めて自分の価値観を見直した。
                                      泣きながら曲を書いていた。
                                      皆 何故 頑張って生きている人達に
                                      もう これ以上頑張れないような人達に
                                      「頑張れ」と応援ソングを書くの?
                                      全く理解できない感覚だった。
                                      私が書いた曲は
                                      『それでも明日は来る』という曲だった。
                                      聴いた人は、それを 絶望ソングだと言った。
                                      違うの。絶望するからこそ「光」は来るの!
                                      この世は闇と光で成り立っている。
                                      闇がなければ光は存在しない。
                                      必ず光りは存在するのだ。
                                      苦しみが強ければ強いほど絶望する。
                                      もし人間が肉体という物質だけの物だったら
                                      この世は闇だけしかなく、不公平でしかない。
                                      愛も希望も存在しない。
                                      物体とか物質は目に見えるが愛や希望は目に
                                      見えない。そんな物は信じないと言う人がいたら
                                      どんなに寂しく悲しいことかと思う。
                                      目に見えるものなど ほんのわずかなのだから
                                      人間は もっと目に見えないものを信じるべきだと思う。
                                      それは自分を信じることでもあるし、光を信じること
                                      でもある。
                                      私が光を信じ続けていると以前のアルバムのマスター
                                      紛失という事が嘘だということが わかってきた。
                                      複雑な以前の事務所の関係で私に隠されていた事実を
                                      調べてくれる人達が動き出した。
                                      自分の創った曲なのに歌えないなんて嘘みたい。
                                      私は ここで良い勉強をさせて頂けた。
                                      人って 憎んだり恨んだりしても こちらも気分良くない
                                      からやめようって。
                                      許すとか赦すとか言う意味をズッシリ32年間かけて
                                      学ぶことができた。
                                      私が音楽活動を途中で出来なくなった訳は色々
                                      あるけれど今さら 何とも思っていない。
                                      これ以上ない地獄のパラレルワールドも行ったから
                                      怖いものはない。
                                      私が ずっと願っていた本来の自分に戻るという夢は
                                      果たすまでに、こんなに長くかかってしまったのだ。
                                      やっと音楽の世界に戻れてレコーディングに入った時
                                      感慨深かった。知っているレコーディングのやり方と
                                      変わっていたけれど音を出すことが本当に嬉しかった。
                                      レコーディングに至るまで本当に助けてくれた
                                      大切な存在、音作りに入ってからは透ちゃんが
                                      とても忙しいのに助けてくれた。
                                      プロデューサーを引き受けてくれて、あとはもう
                                      彼の十八番の「仲間は宝!」の世界に突入した。
                                      そんな経緯があっての帰還ライヴだった。
                                      ノープロモーションなのに わざわざ私を調べて
                                      来て下さったお客様に頭が下がった。
                                      本当に私の事 こんな長い32年降りのライヴなのに
                                      忘れないでいてくれて来て下さった。
                                      私は信じてもらえないほど方向音痴で、涙もろくて
                                      イジメられっこで、ヘマが多くて 社交辞令も下手だけど…
                                      そんな私が創った作品に共感して聴いて下さる方達がいる。
                                      何て 素晴らしいことかと言葉を失う。
                                      LIVEは今は無き六本木のピット・イン以来だ。
                                      とても素晴らしいメンバーと一緒で楽しかった。
                                      ステージの上から いや 今度は色々な所からでも
                                      伝えていきたい。
                                      光を信じる者は光に救われる。
                                      闇を信じる者は闇に飲み込まれる。
                                      楽しい楽しいステージは すぐに終わってしまった。
                                      LIVEをやって初めて帰還した気持ちが湧いた。
                                      これからは もっとLIVEをやりたいななんて
                                      思ってしまった。
                                      そこでも出会いがあったから。
                                      繋がって行けるって思えたから。
                                      私達 わかり合える…皆 仲間になれる!
                                      そんな事を感じさせてくれたLIVEだった。
                                      生の私を観て下さった方達 どう思われたかな?
                                      以前のモデル時代はロングヘアーで女性らしいと
                                      本人は思っていたけれど いつも
                                      「少年ぽい」と言われてきた。
                                      色気も何も無いのかもしれないな。
                                      洗いざらしの真っ白なTシャツが好き。
                                      Gパン履いて 一年中過ごす。
                                      ハイヒールを履くと必ず転ぶ。
                                      こんな私です。
                                      改めて自己紹介してしまった。
                                      もう 次に向けて動いています。
                                      LIVEは周囲と相談しながら決めて行きます。
                                      こんな世の中だから…
                                      私のメッセージを伝えたいと思います。

                                      2013-11-29 05:44:22投稿者 : Nachiko
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                                        ライヴを控えて

                                        気づいたら随分 ブログを書いていなかった。
                                        あっという間に秋が過ぎた。
                                        いつもなら麻布十番納涼大会が過ぎると
                                        “秋”が一気に押し寄せて来る。
                                        どこまでいっても麻布ローカルの私は
                                        そんな地元の祭りとアスファルトに散る
                                        街路樹の落ち葉でしか移ろいゆく季節を
                                        感じることが出来ない。
                                        今年はメチャ久しぶりのアルバム・リリースで
                                        感覚が変だったのか、異常気象で
                                        秋を感じる余裕もなく様々な賑わうニュースに
                                        目が行き、それどころでなかったのか
                                        自分でもわからない。
                                        ただ言えているのは今が11月後半だという事実。
                                        街並みがイルミネーションで彩られ
                                        文具売り場にはクリスマスカードと年賀はがきが
                                        並んで売られている。
                                        自分の中でウォーミングアップして今回の
                                        11月27日のライヴで、やっと
                                        再スタート・ラインに立てるという実感がある。
                                        これから私は、この気の遠くなる時間私を待っていて
                                        下さった、信じられないようなありがたい方や、
                                        初めて知り合えるフレッシュで未知の方に会えるという
                                        ドキドキしてワクワクする事が待っている。
                                        そう思うと人生って粋だと思える。
                                        人は誰もが必ずしも望んだようには生きれない。
                                        それってパラレルワールドがあるからだと
                                        自分に言い聞かせてきた。
                                        きっと自分の望んだように生きて進んでいる世界も
                                        あるに違いない。
                                        幾つかの分岐点があって様々な世界が並行して走っている。
                                        時に絶望し、泣き狂い生まれてきた事さえ呪うほど
                                        苦しむ自分。成功して順風満帆の自分。
                                        孤独死してミイラで発見される自分。
                                        私は今、どのパラレルワールドにいるのだろう?
                                        しかし、目に見える世界など最小で宇宙時間からしたら
                                        ほんのわずかでしかない。
                                        どの世界にいても目に見えない世界が絶対的に大きく
                                        音も心も空気も時間も何もかもが無限に思えるのだ。
                                        この世は簡単にネガティブになれるように出来ている。
                                        とてもモロいと感じることが多いのだ。
                                        私はフロイト派ではないが、この
                                        「人間は意識(理性)が身体を動かしているのでは
                                        なく、無意識(魂)が動かしている」
                                        という部分に関しては納得してきた。
                                        何故なら死にたいという願望をタナトスと呼べば
                                        生きたいという願望は愛でエロスでプラトンは
                                        肉欲とかいうけれど、タナトスを死の衝動と考えれば
                                        この二つの心は陰陽になり無意識の心を制御
                                        しているというのは、とてもわかりやすい。
                                        死にたい気持ち(タナトス)=生きたい気持ち(エロス)
                                        が、やじろべえのように微妙なバランスの上に
                                        ゆらゆらしながら皆生きているのだ。
                                        私が注目してきたのは、この やじろべえの
                                        付け根と揺れ幅だった。
                                        やじろべえなのだから背中を押せば簡単に
                                        傾く。タナトスが強いから当然自殺率も上がる。
                                        目に見えない世界からは沢山の周波や磁場が
                                        私達に語りかけてきている。
                                        時に振動 Hz 匂い 臭い 洗脳 文字や行間
                                        アニメーション 映画 音楽からのメッセージの
                                        危険性など振り返る必要と大切さを
                                        見直す必要がある時期にきている。
                                        ライヴを控えて…あれは いつの頃だったろう。
                                        自分の自宅のスタジオから機材を運び出したのは。
                                        あの日を鮮明に思い出している。
                                        一つずつ録音機材やシンセなど出していった。
                                        もともと籠り作業が好きだったのでスタジオでの
                                        作業は心が落ち着き安心できた。
                                        自分が表に出るのではなくコツコツと創るのが
                                        面白い。
                                        どんな時も音楽の事は頭にあった。
                                        再び連結器がガチャンと音を立てて
                                        音楽をやっていた時の私の世界に繋がった。
                                        あと3日で本番だ。
                                        多くの暖かい支えと強い愛情が引っぱって
                                        ここに戻してくれた。
                                        私の以前からのファンだと言って下さる方が
                                        新譜の感想をメッセージで下さる。
                                        私は大粒の涙をこぼして感動しながら
                                        お目にかかっていないのに抱きつきたくなる。
                                        本当に ありがとうございます。
                                        少し遅くなってしまったけれど
                                        戻ってきました、27日にスタートラインに
                                        つきます。
                                        精一杯頑張ります。あと本番前 皆で通します。
                                        まずは今の心境の報告でした。

                                        2013-11-24 04:04:49投稿者 : Nachiko
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