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シンガー&ソングライター、音楽クリエイター、物書き、産業カウンセラー、思想家。

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M1 紫の糸 ~光を~ La Lumière

M2Prisoner

M3  ホ・ン・ネ Real intention

M4 夕映え It was good die in loneliness

M5 幻華 Distractionof Ω 

 M6 体が風になるまで Return Me!

ボーナストラック:μμタンバリン(アレンジ&プログラミング:Team S)


Vo    Nachiko

Dr    :そうる透

Bass   :渡辺建

Bass   :和佐田達彦

G      :田川ヒロアキ

G   :竹内亨規

Key    :河野啓三

Key    :河本慎一

Vi    :武藤祐生

和太鼓 :響道宴


Mix :岡野高史

All Music&lyrics:舘岡奈智子

All Produce&arr.:そうる透

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La Lumière 

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THE WHO 2

またTHE WHOの事について
続きを書くが、適当に連載して
別の事を書いては又THE WHO
に戻ることをお許し願いたい。
しばし お付き合いを。

ピートのインド思想への傾倒を
読んで興味を持ってからすぐに
知ったのは、ピートの
幼少期に持っていた酷い
鼻へのコンプレックスだった。

自分の鼻が大きいと気にして、
「人生で一番デカい問題みたい
な気がしたぜ、このクソデカ鼻
がさ。親父が酔っぱらって帰って
来ると必ず言いやがるんだ。
“なぁ、お前、顔だけがすべて
じゃないんだからな”
それがために俺はあらゆることを
やってきた。
ギターを弾くようになったのも…
おそらくはこの鼻のせいだろうよ」
というインタビューを読んだ。

段々に興味を持っていくと、
他のメンバーの事も知りたくなった。

ヴォーカルのロジャー・ダルトリーは、
メタル・シートを作る工場で見習い
職工として働いていた。

とにかくドン底生活から這い上がる
ために始めたのがロックンロール。
それだけが自分らしくなるたった
一つの道だったと語っている。

ベースのジョンは、
普通の学校を出ると、それから
先は美術学校か音楽学校へ進むか
考えていた。どちらにも進まず、
税理士学校の事務所に入った。

2年くらいいたけど1週間に
5.6晩はバンドでプレイ。
13歳位の頃、ピートとは学校に
行っていたが時々、デキシーの
バンドでプレイしていた。
ある日、ロジャーに誘われて
ロジャーのバンドに入った。

ドラムのキースは、
17歳の頃、初めて手にした仕事は、
政府が出資しているエレクトロニクス
の会社で経営の見習い。

初めの2年間で23回仕事を変わる。
本人曰く。
「俺は就職の面接じゃいつも
ずば抜けていたからな。
知識といい人格といい、
だいたいどこへ行っても、
こいつは重役候補の人材だと
言われてきたんだぜ」


はじめの2年間で23回も仕事を
変わるとは さすがキース・ムーン。
私はキース・ムーン(愛称ムーニー)
が とても好きだ。

好みが分かれるところだが
その手数の多さと あの俊敏な
動きと計算してるのかしていない
のか わからないドラミングに
ある種の天性の物を感じる。
もしTHE WHOにムーニーが
いなかったら これほどインパクト
のあるバンドとして残ったかと
言えば疑問に感じる。

その強烈な個性は愛してやまない
格別な特別な物を感じている。
ピートが語っていくムーニーの
実像のインタビューを
読んで行ったり、ドキュメント
映画を見ると たまらなくなる。
では ここでロジャーが生まれて
1960年代のTHE WHOは
どんな足取りを通っていた
のだろうか。
出来事をまとめてみる。


1944年3月
ロジャー・ダルトリー、ハマースミス
に生まれる。

10月
ジョン・エントウィッスル
チズウィックに生まれる

1945年5月
ピート・タウンゼント
チズウィッスルに生まれる

1947年8月
キース・ムーン
ウェンブリーに生まれる

1948年9月
ケニー・ジョーンズ
イースト・ロンドンのステップニー
に生まれる

1962年
学校を退学になったロジャーが
ディトワーズを結成。
板金工として働きながら、セミプロ
活動を始める。まもなく税務署で
働いていたジョンがバンドに参加。
ジョンの参加でアートスクール在学中
のピートも加入する。

1963年12月
ローリング・ストーンズの前座を
ディトワーズが務める。この日、
キース・リチャーズがギターを
弾きながら腕を上げるジェスチャー
を見て、ピートがトレードマークに
なったウィンドミル奏法を生み出した
と言われる。

1964年2月
ディトワーズからザ・フーに改名して
初めてのギグを行なう。なお、命名者
は友人のリチャード・バーンズ。

5月
オールドフィールド・ホテルのギグに
突然やってきたキースが、その日の
セッション・ドラマーより
「俺の方がうまいぜ」と名乗り出る。
その夜「ロードランナー」1曲を
演奏し、そのままバンドに加入する。

7月
マネージャーのピーター・ミーデンの
指示で、ハイ・ナンバーズと改名し、
デビュー・シングル「アイム・ザ・
フェイス」/「ズート・スーツ」
をリリース

有能なバンドを探して映画を撮る
ことを夢見ていたキット・ランバート
が、レイルウェイ・ホテルでザ・フー
を初めて見た歴史的な日。

キットは「かつて聴いたことのない
ほど音が大きく、悪魔のような
振る舞いのバンドと出会った」
とこの日を振り返った。

8月
キットに誘われたクリス・スタンプが、
トレード・ユニオン・ホールでの
ギグを見に来た。
この秋、二人はピーター・ミーデンを
追い出し、彼らのマネージャーに
収まった。

10月
この日を最後に、再びバンド名を
ザ・フーに戻す。

1965年1月
ザ・フーのデビュー・シングル
「アイ・キャント・エクスプレイン」
リリース

5月
セカンド・シングル
「エニウェイ・エニハウ・エニウェア」
リリース

6月
初の海外プロモーションでパリに行く。

8月
リッチモンドで開かれた第5回ナショナル・
ジャズ&ブルース・フェスティバル
(後のレディング・フェス)に初登場。
この日演奏された「シャウト・アンド・
ジミー」は『キッズ・アー・オールライト』
のビデオで見ることができる。

9月
26日までオランダとデンマークへ初の
海外ツアーに出かける。

11月
サード・シングル
「マイ・ジェネレーション」リリース。
チャート2位のヒットとなる。
この日から15日までフランス公演。

12月
ファースト・アルバム
「マイ・ジェネレーション」が
ブランズウィック・レーベル
からリリース。
キースが病気になり、この日から
5回のギグをプリティ・シングスの
ヴィヴ・プリンスが代役を務めた。

1966年2月
ザ・フーがヘッドラインを務める
初めてのツアーがスタート。
共演はスクリミーン・ロード・
サッチ&サヴェージズ、マージーズ、
フォーチューンズ、グラハム・ボンド・
オーガニゼイション。

3月
4枚目のシングル「恋のピンチヒッター」
をリアクション・レーベルからリリース。
ところが、B面曲「サークルズ」を
プロデュースしたシェル・タルミーと
ブランズウィック・レコードはこの
曲は許可なく使われたと提訴。
フー側はこのシングルを回収し、
急遽B面を「ワルツ・フォー・ア・ピッグ」
に差し替えて11日に再リリースする
羽目になった。
なお、「ワルツ・ファー・ア・ピッグ」
はザ・フー・オーケストラとの
名義になっていたが、実際の演奏は
グラハム・ボンド・オーガニゼイション
が務めた。

6月
この日から1週間のスウェーデン・
デンマーク公演に出かける。

7月
第6回ナショナル・ジャズ&ブルース
・フェスに、トリとして出演。

8月
移籍トラブル後初のニュー・シングル
「アイム・ア・ボーイ」をリリース。
キット・ランバートの初のプロデュース
作品。英チャートの2位まで上がる。

10月
11月7日まで4度目の海外ツアー。
デンマーク、スウェーデン、ドイツ
を回る。

12月
6枚目のシングル「ハッピー・ジャック」
セカンド・アルバム「ア・クイック・ワン」
をリリース

1967年1月
ブライアン・エプスタイン主催のコンサート
(セイヴィル・シアター)で
ジミ・ヘンドリックスと共演。
世界で最もエキサイティングな二つの
バンドの演奏は後々まで語り草となる。

3月
DJのマレイ・ザ・Kがプロデュースする
ショー(ミュージック・イン・ザ・
フィフス・ディメンション)に出演
するため初めてアメリカへ渡る。

4月2日までの9日間、NYで公演。
セットリストは「ハッピー・ジャック」
「恋のピンチヒッター」
「マイ・ジェネレーション」のみ。

なお、この9日間だけで22本の
マイク、5本のギター、4つの
スピーカー・キャビネット、
16個のドラム・キットをだめにした。
12日間のドイツ公演に出発。
サポートはマーク・ボランのいた
ジョンズ・チルドレン。

7枚目のシングル「リリーのおもかげ」
を新しく設立したトラック・レコード
からリリース

5月20日までフィンランド、ノルウェー、
スウェーデン、デンマークを回る
スカンジナビア・ツアー。

6月
再びアメリカに渡り、16〜17日の
両日フィルモア・ウエスト公演。
モンタレー・ポップ・フェスティヴァルに
出演。この日の演奏は記録映画に収められ、
世界中で公開された。

7月
この年3回目の渡米。58日間の本格的
アメリカ・ツアーを行なう。

9月
アメリカ・ツアーの最後にロスに
立ち寄り、CBSテレビの
『スマザーズ・ブララーズ・コメディアン・
ショウ』に出演。
この模様は『キッズ・ア・オールライト』
のオープニングの映像として有名。

10月
8枚目のニュー・シングル
「恋のマジック・アイ」リリース。

12月
サード・アルバム『セル・アウト』リリース。

1968年1月
この日から31日まで、スモール・フェイセズ
とともに初のオセアニア・ツアーを行なう。

2月
この年1回目のアメリカ・ツアーがスタート。
4月7日まで。
ツアーに合わせ、アメリカで
「コール・ミー・ライトニング」を
シングル・リリース。
イギリスのバンドとして初めて、
フィルモア・イーストマン
(後のポール・マッカートニー夫人)が
撮影しており、後に出版された写真集の
中で見ることができる。
9枚目のニュー・シングル「ドッグス」を
イギリスで発売。

6月
この年2回目のアメリカ・ツアー。
8月29日まで。
このツアー中に「マジック・バス」を
アメリカで先行リリース。
B面は「サムワンズ・カミング」

9月
10枚目のシングル「マジック・バス」
をイギリスでリリース。
B面は「ジキルとハイド」
ロンドンのIBCスタジオで
ロック・オペラ『トミー』の最初の
セッションを行なう。

10月
初のコンビネーション・アルバム
『ダイレクト・ヒッツ』をイギリス
及びヨーロッパでリリース。
なお、アメリカでは
『マジック・バス・ザ・フー・オン・
ツアー』を9月にリリース済み。

12月
ローリング・ストーンズのテレビ企画
『ロックンロール・サーカス』に出演。
四半世紀もビデオ化されなかったのは
「ストーンズがフーの演奏を
妬んだのでは?」と噂が立つほど、
この日のザ・フーは誰もが認めるほど
素晴らしい演奏を行なった。

1969年3月
11枚目のシングル「ピンボールの魔術師」
をリリース。

イギリスでは「リリーのおもかげ」以来
2年ぶりにチャート4位に入るヒット
となった。なおB面の「ドッグス・
パート2」の作者はキース・ムーンと
タウザー(ジョンの愛犬)と
クレジットされた。

4月
この日、ボルトンでのインスティチュート・
テクノロジー公演で『トミー』が
初めて演奏された。

5月
セントラル・ロンドンのロニー・スコッツ・
クラブにマスコミ関係者を集めて
『トミー』のライヴが披露された。
『トミー』を引っ掲げたアメリカ・ツアー
がスタート。

フィルモア・イースト公演中に隣のビルで
火災が発生。
無理矢理演奏を中断させよいとステージに
上がってきた人をピートが蹴飛ばして
しまい、罰金を払う羽目に。
ロック・オペラ『トミー』がリリース。
イギリスではチャートの2位まで上がり、
アメリカでは47週にわたってチャートイン
し続けた。

8月
いったんロンドンに帰ってきたザ・フーは
第9回ナショナル・ブルース・
フェスティヴァルに3回目の出演。
『ウッドストック・ミュージック
&アート・フェア』に出演。
40万人を集めた奇跡のイベントは
映画となって翌年公開される。
多くの人がライヴ・バンド、
ザ・フーの素晴らしさを知る
きっかけとなった。

『ワイト島フェスティヴァル』に出演。
翌年の同フェスティヴァルのライヴは
ビデオ化されているが、この日の
ライヴ映像も存在する。
フーにしては珍しい昼間のライヴなので、
ぜひともビデオ化して欲しいものである。

10月
この年2回目の「トミー・アメリカ・ツアー」
がボストンからスタート。

11月
NYの戦争記念オーデトリアムで行なわれた
公演をもってアメリカ・ツアーを終了。
いったんイギリスに戻るが、翌70年も
世界のロック・ファンはザ・フーと
『トミー』を待っていた、
………………………

ロジャーが生まれてフーというバンドが
出来て 1960年代の彼らの出来事を
並べてみたが、めまぐるしい活躍ぶりに
驚く。

これだけ動いていて、いつピートは
ババに会いに行ったのだろう?
とか どうやって「トミー」みたいな
大作を創れたのだろうとか
思ってしまう。

年表を書いていると、この出来事は
あそこで見たシーンのことだとか、
あの曲のことだとか色々思い浮かべて
書いている本人は楽しい。

ザ・フーに関して まだまだ知識の
浅い私だが コアな方達は沢山
おられると思うので私が語るのは
僭越な気もする。
あくまでも私にとってのフーとは…
である。

ロバート・プラントと二大
金髪カーリーヘアーの美しい
ヴォーカリストだったと
ロジャーのことを思っている。

これから まだまだ語りたいので
キリがないので この辺にしておこう。
あまりにも 伝説とか様々な
武勇伝みたいな 嘘みたいな
イヤ 傍には迷惑だったろうな話が
沢山あるバンドだ。

しかし……
たまらない。
愛してやまないバンドなのである。

2014-02-25 19:25:02投稿者 : Nachiko
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