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Dr    :そうる透

Bass   :渡辺建

Bass   :和佐田達彦

G      :田川ヒロアキ

G   :竹内亨規

Key    :河野啓三

Key    :河本慎一

Vi    :武藤祐生

和太鼓 :響道宴


Mix :岡野高史

All Music&lyrics:舘岡奈智子

All Produce&arr.:そうる透

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存在と時間/2013年総括

昨日に続いて「存在と時間」の話
になるが、これは次回の私の
作品や 活動の中で時々出てくる
内容の根底にある部分が関わって
いるので、あえて続けて書いている。

これだけ読んでも何だか、ゴタゴタと
書いているように思われるかも
しれないが、いずれ徐々に
理解されていくことを
期待している。

「存在と時間」といえば
ハイデガーの わかりにくい
本なのだが、私の大好きで
尊敬する松岡正剛の
「千夜千冊」の916夜に
親しみやすく解説してあるので
そこから抜粋して下に書いて
いこうと思う。

……………

〜略〜途中から
ハイデガーは『存在と時間』を書く
前に、すなわちハンナ・アレントと
密(蜜?)になっていたころ、
『仮面論』『根拠とは何か』を書いて、
そこで「世界というものは日常的な
現存在が演じている演劇のようなものだ」
と指摘していた。

つまりハイデガーがいう「世界」は
世界劇場なのである。
その舞台は、それを知った時には、
すでになんらかの演劇が進んでいるという
ような、そういう舞台世界をいう。

われわれは自分に気がつくと、そこにいる。
ということは、われわれは当初から
共世界的(mitweltilich)で、存在そのものが
世界内存在で、ようするに、はなっから
世界制作的だということになる。

こうしてハイデガーは、すでに存在は世界
(世界劇場)に投企(Entwurf企投)
されていると考えた。

ただし、この投企に気づかないでは、
これは埋没であり、耽落(Verfallen)
である。

ちなみに、このヴェルハーレンという
ドイツ語の概念は、ハイデガーが
けっこう気に入っていた埋没概念で、
ぼくにはすぐに六本木のディスコが
思い浮かぶ。

ともかくも、このようにすべてを
「世界内存在」としてみれば、
ここに主体と客体というような
二分法を持ち込むのは、まったく無駄に
なってくる。

それならまだしも世界と人間の関係を、
スケーネー(場面)とドラーマ(活動)と
ペルソナ(役柄)に分けて見た方がいい。
誰だって、このいずれかの渦中にいるはずだ。

そこで問題は、この“降りられない舞台”で、
いったん耽落した自身が、いよいよ何に
めざめていくかということ、
このことになる。

世界劇場においては、われわれは
“役柄の自己”から始まっている
(たとえば氏名をもっている、
学校の生徒だ、居住の住所がある、
肩書きがついている)。

それゆえ、この役柄を耽落から出て、
捨てるにあたっては、そこに待ち構えて
いる“本来の自己”をちゃんと覚悟して
おかなくてはならない。

だって本来性というものは、急に
剥き出しに露頭してくることもある
からだ。

それができないようならば、
まだしも役柄を続けていた方がいい。
つまりは、耽落から一歩をめざめれば、
そこは役柄がはがれて裸の存在が見え
隠れする。

このことを知っていなければならない。
問題は、この自分の奥にある裸の自己が
どの程度のものかということだ。
インチキかもしれないし、見るに
堪えられないかもしれない。

こうしてハイデガーは、この裸の自己を
それなりに覚悟しておくことを、
存在学(存在論)としたわけである。
そのためには、ハイデガーは最低でも、

二つのことが必要になると見た。
第一には、その本来の自己に
先立つ思想をもつことだ。

突然に裸の自己を見ようとしたって、
うまくいくわけがない。
がっかりするか、動物的本能に負けて
いくか。そのどちらかだ。

そこでハイデガーは「自身に先立つこと」
(Sich-vorweg)を第1にあげた。
あらかじめ「それ」に先立つようにする
ことだ。

これはどういう意味かというと、
「それ」としての本来の自己は、役柄の
自己からすると「外」にあるものなのである。
「ほか」や「べつ」なのだ。

だから、「それ」をあらかじめ凝視
していなければならない。
そして、その「外」へ脱自していくことを
惧れないようにしなくてはならない。
第2に、そのように「それ」を想定できる
のなら、その本来自己と役柄自己との
あいだで、自由に「自身を取り戻し」
(wiederholen)をすることを勧めた。
これは、もはや役柄に惑わされない存在を
自覚できるということにあたっている。

ざっとこんな順番でハイデガーは、
世界内存在における自己の二重性とも
いうべきを、すばやく往復するような
存在学を提示した。

さぁ、そうなると、この世界劇場での
時間というものは、演技上の時間を
本来の自己の時間が刻一刻という
単位で、如実させているということ
になる。

また、その逆もおこっているという
ことになる。

その入れ替わりは、まことに速い。
この存在のすばやく入れ替わる二重性
に関与している時間こそが、ハイデガー
の時間論の中核にある「刻一刻性」
(Jeitlichkeit)なのである。
『存在と時間』というタイトルの
「時間」には、このような特色があった
のだ。

ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と
消滅を同時化する時間である。

ところで、このZeitlichkeitの
“Zeitlich”とか「無常の」という意味を
持っているということには、もう少し
注目が集まっていい。

ぼくは『花鳥風月の科学』(淡交社)では、
この“Zeitlich”を、万葉の歌から採って、
「まにまに」としたのだ。

これでおおよその見取り図が見えたと思う
のだが、これらをまとめていえば、
ハイデガーの存在学では、現前が不在であり、
隠れることが現れることなのである。
存在とは、このような現出の様式を
持っているということなのだ。

ということは、存在には、究極の依りどころ
なんてものはないのだということでもある。
存在の起源や存在の理由をもちだそうにも、
もちだせない。

それが存在なのだ。

何という変なものだろうか。

しかし、これこそ稲垣足穂が
黒森の哲人ハイデガーに憧れた
「ハイデガー存在学の無底性」
という、まことにカッコよい
考え方なのだ。

存在に底がない?
そうなのである。

存在は底なしなのだ。

いいかえれば、存在が底なのである。
これは『存在と時間』のひとつの
結論ともいうべき提唱である。

ハイデガーはこれをもって
「存在の途方もない不可解」とも
言っている。

しかし、これはいったいどういう意味
なのだろう。
ここは難しく考える必要はない。
たとえばペットボトルには底がある。
その底で「生茶」や「十六茶」が
支えられている。
けれども、そのペットボトルの底自体には、
底はない。

バスの終点はたしかに終点である。
けれども、その終点のバスストップ
そのものには、終点がない。
人間存在も、そのように底がない。
それこそ、無底という底自体が発現した
存在なのである。

〜以下略〜
まだまだ続くのだが、私にとって、
たった1個のコップから、それを
見ている自分=自己、時間、
はたして存在とは何か?

から始まった小さな事が、
まるで小さな小川が大海へと
繋がるかのように途中経過を
経て色々な景色を見させて
くれたのだ。

ここに抜粋した松岡正剛との
出会いは、とても大きなものと
なって私の中で育っていく。
まさに「存在学の無底性」は
圧巻だ。

2013年の総括として、
私は常々言っているのだけれど、
物事は難しく記述することは
簡単なのだ。

むしろ難解に記述することは手間が
省けて楽になる。

どうしても、その部分は、はずせないと
いう部分は仕方ないとして、
私は、いかに シンプルで 人に
わかりやすく 誤解を招かない言葉を
選ぶかに細心の注意を払っている。

どうしても他の人の作品を音楽や
イメージをビジュアル化した物を
創りたい時は、造語とも思える
表現を使ったり、
詩の世界を あまり一般に知られていない
××音という音程で歌ってきた。

それは音程的には間違っていない
けれど、一つの音程の幅の中で、
かなり綿密な印象を違って聴いてもらう
ために、フラット気味に上辺の
音程を取ったり、ジャープ気味に
取ったり、また歌で楽器のように
ニュファンスを出すために、
グリスを入れたりする。

私が凄いなと思うグリスを入れる方は
越路吹雪さんだった。

今、ビブラートの種類も
聴いていると減ってきているように
思える。

多数のビブラートを長短・ウェーブの幅
など人に訴えるのに最高の武器になる。
摩訶不思議なことに今は
機械的に、その大切なビブラートも
他人とのデュエットで揺れ幅まで
気味悪い位手を加えられ
調整されてしまっている。

帰還して驚いた事は沢山あった。
私は作家でもあるので
様々な事にチャレンジしていきたい。
勿論大好きなプログレは好き放題
出来るので手放したくない。

ただ、そこに留まっていない
これからの私を見て頂けたら
これからの抱負として最高の
事だと思う。

来年は、多分 え?と思われることも
やってみるつもりでいる。

私は音楽が好きだから、語りかける
のが好きだから、そこに
誰もが願うメッセージを込めて
必ず叶うことを理由なくして
語っていきたい。

あっという間の一年間でした。
ファンだと言って下さる方の
お顔を見る機会も得ることが
出来たのは最高の喜びです。

こうして繋がり、こんな世の中
だからこそ、日本を愚痴と不満の
ゴミ箱にしたくないのです。

覚醒した人達は共存を考えつつも、
死生観の認識、政府の表に立たされて
だけの人、世界問題も見ているはず。

立ちが上るということは、
脅しに屈しない自分でなければ
一部の人集めに巧みな人について行く

しかない。そかし歴史は繰り返している。
英雄として記されている人の
やった表に、あえて記されていない
記述を見ると、この世の中が
いかに箱庭的かがわかる。

社会運動が好きな人は、すぐに
飛びつく。

私は年末に、ありえないアルバムの
再販が皆様のおかげで決まり、
感謝とともに、来年に
さらなる光の筋を見えた。

私の事を長いこと、再販の見込みも
ないのに覚えてくれていて、
これからも応援してくれると
言って下さる方達は、ただ者では
ないと知った年だった。

2013年 懐かしいミュージシャンの死も
あり、諸々の音楽関係でも淋しい
ニュースはありました。
でも、来年早々 また新しい
報告が出来そうで楽しみにしています。
感謝 感謝の年でした。

2013-12-31 09:21:54投稿者 : Nachiko
この記事のURL コメント(2) トラックバック(0) nice!  あしあと
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    コメント一覧
    瑞恵さん
    この場でいう存在に底がないの「底」は、地に足がつく「底」ではなくて、私は「限界」というニュファンスで捉えています。「限りが無い」という感じです。非常に難しい少しわかりにくい内容かもしれませんが、私にとって重要なポイントでもあります。いつも応援ありがとうございます。
    サイト管理者 Nachiko   2014-01-04 00:14:27
    guest
    底の無い人間の存在。
    私は常に足が地に付いていない感覚で生きている。地に足を付けようとすると必ず失敗に繋がる。自分ではどうする事もできないもどかしさに苦しむ。

    奈智子さんの今後の活躍、活動に期待します。応援しています!
    深い味のある歌を作り歌って下さい!
    投稿者 瑞恵   2013-12-31 21:42:15
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